「源頼資」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
wikify
年表を出典から転記, cat
1行目:
'''源頼資'''(みなもと の よりすけ、[[寛永]]7年〈[[1010年]]〉頃? - [[治暦]]2年8月24日〈[[1066年]]9月22日〉<ref name="六人党"/>)は、[[平安時代]]中期の[[日本]]の[[武将]]・[[官人]]。
 
[[源頼国]]の二男で、母は備後守藤原師長女。従五位下讃岐守をつとめた[[源頼弘]]の異母弟、[[源頼実]]などの異母兄にあたる<ref name="六人党"/>。従五位下下野守に任官している。
 
一方、[[永承]]年間には[[ばい子内親王 (後朱雀天皇皇女)|六条斎院禖子内親王]]歌合に参加したり、[[橘資成]]と歌合を共催したりと<ref name="六人党"/>、文化人としての側面も残る。
『[[扶桑略記]]』には、[[上総介橘惟行]]の館を焼亡させて佐渡国へ流罪になるという記述が残るなど、粗暴な一面もあったらしい。
二年後に罪を許され帰国を果たしているようである。
 
『[[扶桑略記]]』には、[[康平]]7年(1064年)に[[国司]][[上総介橘惟行]]の館を焼亡させて[[佐渡国]]へ流罪になるという記述が残るなど、粗暴な一面もあったらしい<ref name="六人党"/>
一方、[[ばい子内親王 (後朱雀天皇皇女)|六条斎院禖子内親王]]歌合に参加したり、[[橘資成]]と歌合を共催したりと<ref name="六人党"/>、文化人としての側面も残る。
二年後に罪を許され帰国を果たしているようであるが、その直後に没した
 
== 年表 ==
*寛弘7(1010)年頃、出生
*[[長暦]]2(1038)年10月7日、[[六位蔵人]]見任。
*長暦3(1039)年1月1日、「今日蔵人範基頼資蒙勘当了、頭弁奉之者、晦日追儺四方拝并御簾等行事範基也、而与頼資相論之間、不勤件事退出、至頼資者、此度無過、而共有勘当、~今年栄爵之巡也、如何々々」(『春記脱漏補遺』)
*長暦3年11月15日、[[左衛門尉]]見任。
*[[長久]]2(1041)年1月、蔵人を去る。叙[[従五位下|従五位]]。
*[[康平]]5(1062)年12月28日、[[下野守]]見任。
*康平7(1064)年9月16日、「前下野守源頼資配流佐渡国。依焼亡上総介橘惟行館并殺害人民之愁也」(『扶桑略記』)
*康平7年12月5日、[[土佐国]]に流される
*治暦2(1066)年7月2日、「被免流人前下野守源頼資并興福寺僧静範等類件」
*治暦2年8月24日、没
 
年表出典<ref name="六人党"/>
 
== 出典 ==
12 ⟶ 26行目:
<ref name="六人党">[http://www2u.biglobe.ne.jp/~heian/kenkyu/waka-rokunintou/roku-people/yorisuke-m.htm 「源頼資」]『往年六人党あり ― 和歌六人党の軌跡』[http://www2u.biglobe.ne.jp/~heian/index.htm 平安王朝クラブ]、2015年1月3日閲覧</ref>
</references>
 
{{デフォルトソート:みなもと の よりすけ}}
[[Category:平安時代中期の貴族]]
[[Category:平安時代の武士]]
[[Category:摂津源氏|よりすけ]]
[[Category:多田源氏|よりすけ]]
[[Category:1010年生]]
[[Category:1066年没]]