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[[1889年]](明治22年)3月、[[新富座]]で四代目[[市川染五郎]]を襲名。[[1903年]](明治36年)5月には[[歌舞伎座]]で八代目[[市川高麗蔵]]を襲名。このころから[[團菊]]を継ぐ次世代の有望株として注目を集めるようになる。[[北村季晴]]の叙事唱歌『露営の夢』を舞台上演する(明治38年)。
 
[[1911年]](明治44年)11月、[[帝国劇場]]で七代目[[松本幸四郎]]を襲名。その後は[[帝国劇場]]を拠点に活躍し、新作、翻訳劇にも挑戦。<!--その後1930年[[松竹]]に所と専契約を結ぶ-->
 
晩年になっても積極的に舞台に出演、[[1946年]]([[昭和21年]])には最後の『[[勧進帳]]』を勤めている。また翌年には、<!--[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ東京劇場]]、48年には[[フォービアン・バワーズ|パワーズ少佐]]の[[肝煎り大阪歌舞伎座]]で-->『[[仮名手本忠臣蔵]]』の通し狂言も勤めあげた。48年12月[[新橋演舞場]]での[[大岡越前]]役が最後の舞台となった。
 
[[1949年]](昭和24年)2月の大阪歌舞伎座『[[助六]]』で[[市川壽海 (3代目)|三代目市川壽海]]が[[助六]]を勤めるにあたり、七代目は以前から[[助六#出端の唄|出端の唄]]の振りの稽古をつけに行くことを約束していた。しかしそのとき体調を崩して寝込んでいたので、名代として門弟振付師の藤間良輔が出向くことになり、師匠に伺いをたてに行ったが、「聞いて分かるものじゃない、なまじっかなものを伝えては済まないから」と、わざわざ床から起き下駄をはいて、舞の要を幾度も見せた。その翌日死去。壮絶な最期だった。
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