「織田長益」の版間の差分

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同年の[[本能寺の変]]の際は、信忠とともに[[二条城|二条御所]]にあったが、長益自身は城を脱出。[[近江国|近江]][[近江八幡市|安土]]を経て[[岐阜市|岐阜]]へ逃れたとされる。変後は甥の信雄に仕え、検地奉行などを務める。[[小牧・長久手の戦い]]では信雄方として[[徳川家康]]に助力。[[蟹江城合戦]]では[[大野城 (尾張国海部郡)|大野城]]の[[山口重政]]救援、[[下市場城]]攻略にも参陣しており、[[蟹江城]]の[[滝川一益]]の降伏を仲介した。戦後家康と[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の講和に際して折衝役を務めている。また、[[佐々成政]]と秀吉の間を斡旋したともいう。天正16年([[1588年]])、[[豊臣氏|豊臣姓]]を下賜された。
 
天正18年([[1590年]])の信雄[[改易]]後は、秀吉の[[御伽衆]]として[[摂津国]][[下郡]]味舌(現在の[[大阪府]][[摂津市]])2,000石を領した。この頃、剃髪して有楽斎と称す。姪の[[淀殿]]とは庇護者として深い関係にあり、[[豊臣鶴松|鶴松]]出産の際も立ち会っている。
 
=== 関ヶ原の戦い ===