「鳥海山大物忌神社」の版間の差分

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{{神社
|名称 = 鳥海山大物忌神社
|画像 = [[ファイルFile:AkitaSanchou-Gohonsha mtfrom chokaiChoukai caldera.jpgJPG|250px|鳥海山]]<br />[[神体]]とされた 霊峰 [[鳥海山]]頂にある御本社
|所在地 = [[山形県]][[飽海郡]][[遊佐町]]に3宮<br/>(各項参照)
|位置 =
}}
{{座標一覧}}
[[ファイル:Akita mt chokai.jpg|thumb|right|250px|[[神体山]]とされた霊峰[[鳥海山]]]]
 
'''鳥海山大物忌神社'''(ちょうかいさんおおものいみじんじゃ)は、[[山形県]][[飽海郡]][[遊佐町]]にある[[神社]]。[[式内社]]([[名神大社]])、[[出羽国]][[一宮]]。[[近代社格制度|旧社格]]は[[国幣中社]]で、現在は[[神社本庁]]の[[別表神社]]。
 
==概要==
[[鳥海山]]頂の本社と、麓の吹浦(ふくら)と蕨岡の2か所の口之宮(里宮)の総称として大物忌神社と称する。出羽富士、鳥海富士とも呼ばれる[[鳥海山]]を[[神体山]]とする。当社は鳥海山の[[山岳信仰]]の中心を担ってきており、[[平成]]20年([[2008年]])3月28日に神社[[境内]]が国の史跡へ指定されている。
 
==祭神==
 
== 歴史 ==
=== 創建に関する諸説 ===
[[景行天皇]]または[[欽明天皇]]時代の創建と伝えられるが、諸説があり、山頂社殿が噴火焼失と再建を繰り返しているための[[分霊|勧請]]も絡んでいて、創建時期の特定は困難である<ref name="tetsugaku">[http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00150430-00000128-0447.pdf?file_id=63866 「山岳信仰の展開と変容 -鳥海山の歴史民俗学的考察」鈴木正隆(『哲学』第128集、三田哲學會、2012年3月)]</ref>。鳥海山の登山口は、主要なものだけで矢島、小滝、吹浦、蕨岡の4ヶ所([[鳥海修験]] も参照のこと)があり、各登山口ごとに異なる伝承が伝わるうえに、登山口ごとに信徒が一定の勢力を構成して、互いに反目競争することも多かったため、それらの伝承が歪められることも多く、定説をみない状況である<ref name="tetsugaku" />。
[[景行天皇]]または[[欽明天皇]]時代の創建と伝えられる<ref name="shaden">社伝では[[景行天皇]]の時代に出現し、[[欽明天皇]]25年([[564年]])鳥海山上に鎮座したとされる。[[永正]]7年([[1510年]])に著された『羽黒山年代記』では欽明天皇7年([[546年]])の出現としている。</ref>。『[[日本三代実録]]』[[貞観 (日本)|貞観]]13年([[871年]])5月16日の条にある[[出羽国|出羽]][[国司]]の報告から、飽海郡山上に大物忌神社があったことが確認できるが<ref>『日本三代実録』貞観13年(871年)5月16日の条には「'''出羽國司言。従三位勳五等大物忌神社在飽海郡山上。巖石壁立。人跡稀到。夏冬戴雪。禿無草木。去四月八日山上有火。'''」と記述されている。この記述では、大物忌神社の鎮座地は飽海郡にある山の上としか分からないが、『山形県史 通史編第1巻 原始・古代・中世編』では、四時雪を戴いて草木も生えず、登山困難な高山で、しかも4月8日に噴火したとあるので鳥海山と推定される、と述べている。山形県 『山形県史 通史編第1巻 原始・古代・中世編』 山形県 1979年3月 より。</ref>、それ以前の記録は欠けているため創建時期は特定できない。また、山頂社殿が噴火焼失と再建を繰り返しているため[[分霊|勧請]]についても諸説生じさせている。
 
==== 夷征と大物忌神吹浦の伝承 ====
吹浦の社については、元禄16年([[1703年]])に芹沢貞運が記した『大物忌小物忌縁起』において、景行天皇のとき出羽国に神が現れ、欽明天皇25年 ([[564年]]) に飽海郡山上に鎮まり、大同元年 ([[806年]]) に吹浦村に遷座したとある記述があり、現在の社伝はこの吹浦の創建についての伝承を踏襲しているとされる<ref name="tetsugaku" />。なお、大同元年は空海が唐から帰国した年にあたり、東北の多くの寺社で創建の年とされているという<ref name="tetsugaku" />。
[[越国]]より始められた夷征は、[[慶雲]]から[[和銅]]の頃に[[庄内地方|庄内]]以北の着手に至ったが、当時この地方は原生林に覆われ、また南方を追われた[[蝦夷]]が群居し、常に噴煙を吐き時々大爆発する[[鳥海山]]の存在は朝廷軍にとって脅威であった。そのような状況で、もともと日本では[[山岳信仰]]が盛んだった背景もあって、朝廷は鳥海山の爆発が夷乱と相関していると疑ったのではないか、と『名勝鳥海山』<ref name="choukai">安斎 徹・橋本賢助・阿部正巳 『山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山』 国書刊行会 1982年11月 より。</ref>では推測している。
 
『[[日本三代実録]]』[[貞観 (日本)|貞観]]13年([[871年]])5月16日の条にある[[出羽国|出羽]][[国司]]の報告から、飽海郡山上に大物忌神社があったことが確認できるが<ref>『日本三代実録』貞観13年(871年)5月16日の条には「'''出羽國司言。従三位勳五等大物忌神社在飽海郡山上。巖石壁立。人跡稀到。夏冬戴雪。禿無草木。去四月八日山上有火。'''」と記述されている。</ref>、大物忌神社の鎮座地は飽海郡にある山の上とあるのみで、上記の吹浦についての言及はない<ref>『山形県史 通史編第1巻 原始・古代・中世編』では、四時雪を戴いて草木も生えず、登山困難な高山で、しかも4月8日に噴火したとあるので鳥海山と推定される、と述べている。山形県 『山形県史 通史編第1巻 原始・古代・中世編』 山形県 1979年3月 より。</ref>。
前述の『日本三代実録』貞観13年(871年)5月16日の条にある[[出羽国|出羽]][[国司]]からの報告には、さらに以下の記述がある。
 
創建に関する吹浦の伝承として、他に、吹浦の信徒が蕨岡の勢力に対抗して宝永2年(1705年)に寺社奉行所に提出した「乍恐口上書を以申上候事」という文書に、慈覚大師([[円仁]])が開基したとの記載がある<ref name="tetsugaku" />。この記載は、蕨岡に伝わる縁起に対抗する意味合いが強かったと思われるが、現在も吹浦には慈覚大師直筆とされる天台智顗の図像と金胎両界曼荼羅図が保管されている<ref name="tetsugaku" />。
{{Quotation|4月8日に噴火があり、土石を焼き、雷鳴のような声を上げた。山中より流れ出る河は青黒く色付いて泥水が溢れ、耐え難いほどの臭気が充満している。死んだ魚で河は塞がり、長さ10[[丈]](約30m)の大蛇2匹が相連なって海へ流れていった。それに伴う小蛇は数知れずである。河の緑の苗は流れ損ずるものが多く、中には濁った水に浮いているものもある。古老に尋ねたところ、未曾有の異変であるが、[[弘仁]]年間に噴火した際は幾ばくもせず戦乱があった、とのことであった。そこで報告を受けた朝廷が[[陰陽寮]]にて占いを行ったところ、結果は全て、出羽の名神に祈祷したが後の報祭を怠り、また墓の骸骨が山水を汚しているため怒りを発して山が焼け、この様な災異が起こったのだ。もし鎮謝報祭を行わなければ戦乱が起こる、と言うものであった。そこで奉賽を行うと共に神田を汚している家墓骸骨を除去せよと国守に命じた。}}
この記述は鳥海山噴火が兵乱の前兆であると信じられていたことを覗わせている、と『名勝鳥海山』<ref name="choukai" />では述べている。
 
その他、吹浦の「大日本国大物忌大明神縁起」(成立年代不明)には、地元の他の伝承と融合したと思われる「卵生神話」が記されており、「天地が混沌とした中から両所大菩薩・月氏霊神・百済明神が現れ、大鳥の翼に乗って、天竺から百済を経て日本に渡来した。左翼にあった二つの卵から両所大菩薩が、右翼にあった一つの卵から丸子元祖が生まれ、鳥は北峰の池に沈んだ。景行天皇のとき、二神が出羽国に現れ、仲哀天皇のとき、三韓征伐で功績をたてたので、正一位を授かり勲一等を得た。用明天皇のとき、師安元年6月15日に、二神は飽海郡飛沢に鎮まった」という<ref name="tetsugaku" />。なお、丸子氏は、遊佐町丸子に住み、鳥海山信仰に大きな影響を与えた一族である可能性があるとされる<ref name="tetsugaku" />。その後、貞観6年([[864年]])、慈覚大師(円仁)が鳥海山から五色の光が放たれているのに気づいて、登ろうとすると、青鬼と赤鬼が妨害したので、火生三昧の法で対抗したところ、鬼は観念して、今後は鳩般恭王として大師に従い仏法を守護すると誓ったという<ref name="tetsugaku" />。そして、円融院の代([[969年]]から[[984年]])に朝廷から両所大菩薩と命名されたという<ref name="tetsugaku" />。
元来、鳥海山は山名が無く<ref>いつごろから鳥海山と呼ばれたかは定かでないが、[[暦応]]5年([[1342年]])7月26日、藤原守重が息災延命の意趣をもって奉納した[[鰐口]]銘に、鳥海山とあるものが文字として確認できる最古のものである。</ref>、山そのものが大物忌神と称されていた。物忌とは斎戒にして不吉不浄を忌むことであり、山の爆発は山神が夷乱凶変を忌み嫌って予め発生させるものだと朝廷は考えたことが、この山神を大物忌神と称した所以であると『名勝鳥海山』<ref name="choukai" />では考察している。また同書では、山神の怒りを鎮め、その力を借りて夷乱凶変を未然に防ごうとした一例として、『[[日本紀略]]』[[天慶]]2年([[939年]])4月17日の条にある[[天慶の乱 (出羽国)|秋田夷乱(天慶の乱)]]発生の報が到達した際、朝廷で物忌が行われた<ref name="geki">『[[外記|外記日記]]』の記述による。</ref>ことを挙げている。なお『[[本朝世紀]]』[[天慶]]2年([[939年]])4月19日の条には、大物忌明神の山が噴火したとの記述がある。
 
上記の「卵生神話」は朝鮮の「三国遺事」や「三国史記」にも記載があり、外来の伝承が存在したことが推測されるが、鳥を先祖とするトーテミズム的な発想は、中世に成立した「鳥海山」の名称と関連していて、現在も地元に伝わる霊鳥伝説ともつながりを持っており、中世から近世にかけて成立した伝承である可能性が高いとされる<ref name="tetsugaku" />。
=== 鳥海山の神威と神階昇叙 ===
[[鳥海山]]の噴火は[[大物忌神]]の神威の表れとされ、噴火のたびに朝廷より[[神階]]の陞叙が行われた。『[[続日本後紀]]』[[承和 (日本)|承和]]5年([[838年]])5月11日の条において[[従五位|従五位上]]であった大物忌神を[[正五位|正五位下]]に1級進めていることから、これ以前に神階の授位があったことは明らかであるが、文献上の記録が無いため最初の授位がいつかは不明である。以下は時系列的に並べた神階の授与である。
 
[[永正]]7年([[1510年]])の『羽黒山年代記』では、鳥海山は飽海嶽と呼ばれていたとして、欽明天皇7年([[546年]])に神が出現した後、貞観2年([[860年]])に、慈覚大師(円仁)が青鬼と赤鬼を退治した後、山の外観が龍に似ているとして、龍の頭部にみえる箇所(龍頭)に権現堂を建て、寺号を龍頭寺(りゅうとうじ)として、さらに、鳥の海に因んで山号を鳥海山としたとされており、卵生神話の記載はないものの、上記の「大日本国大物忌大明神縁」と共通する内容となっている<ref name="tetsugaku" />。なお、現在の[[龍頭寺 (遊佐町)|龍頭寺]]は大同2年 ([[807年]]) に慈照上人が開いたとされており、上述の空海の帰国の年に合わせられているほか、慈照上人の実在が確認されておらず、慈覚大師(円仁)の錯誤である可能性もあるが、『羽黒山年代記』の貞観2年に開かれたとする記述とは年代が離れている<ref name="tetsugaku" />。
* 『続日本後紀』 承和5年(838年)5月11日の条 [[従五位|従五位上]]より[[正五位|正五位下]][[勲等|勳五等]]へ進1級の陞叙。
* 『続日本後紀』 承和7年([[840年]])7月26日の条
*: 正五位下勳五等を[[従四位|従四位下]]勳五等へ陞叙。前年に遭難した[[遣唐使|遣唐使船]]が海賊の襲撃にあった際、寡兵で海賊を撃退したが、これは同じ頃に噴火して神威を表した大物忌神の加護によるものであるとして、[[神封戸|神封]]2戸の寄進と共に[[仁明天皇]]の宣命が添え下された。
* 『日本三代実録』 [[貞観 (日本)|貞観]]4年([[862年]])11月1日の条 [[正四位|正四位下]]勳五等へ陞叙。また、[[延喜式神名帳|官社]]に指定された。
* 『日本三代実録』 貞観6年([[864年]])2月5日の条 正四位下勳五等より[[正四位|正四位上]]勳五等へ陞叙。
* 『日本三代実録』 貞観6年([[864年]])11月5日の条 正四位上勳五等より[[従三位]]勳五等へ陞叙。
* 『日本三代実録』 貞観15年([[873年]])4月5日の条
*: 従三位勳五等より[[正三位]]勳五等へ陞叙。貞観13年(871年)の大噴火沈静後、山頂社殿を再建し宿祷報祭記を行ったのを受け陞叙された。
* 『日本三代実録』 [[元慶]]2年([[878年]])8月4日の条
*: [[元慶の乱|秋田夷乱(元慶の乱)]]において朝廷軍が敗退したのを受け占ったところ、古来より征戦に霊験を有する大物忌神、[[月山神社|月山神]]、[[小物忌神社|小物忌神]]の3神が、神気賊に帰して祈祷が届かなくなってしまったと出た。そこで爵級を増せば霊応あるべしとして、正三位勳五等を正三位[[勲等|勳三等]]に進めた。『日本三代実録』によれば、これより前の元慶2年(878年)7月10日の条で[[神封戸|神封]]2戸が加増され、4戸となっている。
* 『日本三代実録』 元慶4年([[880年]])2月27日の条
*:正三位勲三等より[[従二位]][[勲等|勳三等]]へ陞叙。[[元慶の乱|秋田夷乱(元慶の乱)]]平定後、平時に復したのを受け陞叙となった。これが[[中世#日本|中世]]以前では最後の昇叙の記録であるが、『本朝世紀』天慶2年(939年)4月19日の条において[[出羽国|出羽]][[国司]]が官符を賜った時は[[正二位]]勳三等となっている。
* [[元文]]元年([[1736年]]) 蕨岡の願い出により[[正一位]][[勲等|勳三等]]に昇進。
 
==== 神仏習合蕨岡の伝承 ====
吹浦とは別の縁起が伝わる蕨岡の「鳥海山記并序」(宝永6年、[[1709年]])では、[[役小角|役行者]]が開山したとする前提で、行者がはじめて山に登ったとき、「鳥の海」をみたことから「鳥海山」と名づけられたとしている<ref name="tetsugaku" />。なお、社の創建のとき、山に名称はなく、現在の「鳥海山」という山名ができた由来には諸説あり、山上にあって霊鳥が生息すると言い伝えられる「鳥の海」によるとする説が有力である<ref name="tetsugaku" />。
 
蕨岡に伝わる他の縁起では、「鳥海山縁起和讃」(嘉永5年、[[1852年]])に、天武天皇のとき、山の神の命により、役行者が山中に出没する鬼を退治し、開山したと記されている<ref name="tetsugaku" />。この縁起は、吹浦に伝わる慈覚大師(円仁)の創建とする説よりも年代を古い説を唱え、対抗しようという意図がみられるとされる<ref name="tetsugaku" />。
 
関連して、蕨岡の東之院興源は「出羽國一宮鳥海山略縁起」(安政4年、[[1857年]])の中で、役行者が山中に神の眷属である三十六王子を祀り山の守護神としたという記載があり、実際に、蕨岡では山道に三十六王子を祀っていたという<ref name="tetsugaku" />。
 
=== 古代 ===
==== 山岳信仰 ====
[[越国]]より始められた夷征は、[[慶雲]]から[[和銅]]の頃に[[庄内地方|庄内]]以北の着手に至ったが、当時この地方は原生林に覆われ、また南方を追われた[[蝦夷]]が群居し、常に噴煙を吐き時々大爆発する[[鳥海山]]の存在は朝廷軍にとって脅威であった。そのような状況で、もともと日本では[[山岳信仰]]が盛んだった背景もあって、朝廷は鳥海山の爆発が夷乱と相関していると疑ったのではないか、と『名勝鳥海山』<ref name="choukai">安斎 徹・橋本賢助・阿部正巳 『山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山』 国書刊行会 1982年11月 より。</ref>では推測している。
 
前述の『日本三代実録』貞観13年(871年)5月16日の条にある[[出羽国|出羽]][[国司]]からの報告には、鳥海山の噴火について、「出羽の名神に祈祷したが後の報祭を怠り、また墓の骸骨が山水を汚しているため怒りを発して山が焼け、この様な災異が起こったのだ」等の記述があり、鳥海山噴火が兵乱の前兆であると信じられていたことを覗わせている、と『名勝鳥海山』<ref name="choukai" />では述べている。
 
上述のとおり、当初、「鳥海山」という山名は無く、山そのものが大物忌神と称されていた。物忌とは斎戒にして不吉不浄を忌むことであり、山の爆発は山神が夷乱凶変を忌み嫌って予め発生させるものだと朝廷は考えたことが、この山神を大物忌神と称した所以であると『名勝鳥海山』<ref name="choukai" />では考察している。また同書では、山神の怒りを鎮め、その力を借りて夷乱凶変を未然に防ごうとした一例として、『[[日本紀略]]』[[天慶]]2年([[939年]])4月17日の条にある[[天慶の乱 (出羽国)|秋田夷乱(天慶の乱)]]発生の報が到達した際、朝廷で物忌が行われた<ref name="geki">『[[外記|外記日記]]』の記述による。</ref>ことを挙げている。なお『[[本朝世紀]]』[[天慶]]2年([[939年]])4月19日の条には、大物忌明神の山が噴火したとの記述がある。
 
==== 神仏習合 ====
[[六国史]]によれば[[斉衡]]3年([[856年]])から[[貞観 (日本)|貞観]]12年([[870年]])の間に出羽国では[[定額寺]]が6ヶ所指定され、また『日本三代実録』[[仁和]]元年([[885年]])11月21日の条では飽海郡に[[神宮寺]]があったと記していることから、出羽における[[神仏習合]]はこの時期に始まったと『名勝鳥海山』<ref name="choukai" />では推測している。また同書によれば、大物忌神へ奉仕する職制は[[神仏習合]]以来変化し、従来の唯一神道を以って奉仕する[[社家]]、神宮寺の仏式を以って奉仕する社僧に別れたが、その後の仏教隆盛に従い社家は段々と衰退して行き、中世には[[本地垂迹|本地垂迹説]]により'''鳥海山[[権現|大権現]]'''と称して社僧が奉仕をしていたのだと言う。これが後の[[明治]]の[[神仏分離]]によって、大物忌神社に復すまで続くことになる。
 
[[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])には『[[延喜式神名帳]]』により式内社、[[名神大社|名神大社]]とされた。また、『[[延喜式]]』の「主税式」においても祭祀料2,000束を国家から受けている。『延喜主税式』によれば、当時国家の正税から祭祀料を受けていたのは[[陸奥国]][[鹽竈神社|鹽竈社]]、[[伊豆国]][[三嶋大社|三島社]]、[[淡路国]][[大和大国魂神社|大和大国魂社]]と他に3社しかないことから、大物忌神社が国家から特別の扱いを受けていたことが覗える。大物忌神は、六国史にも、13度登場している<ref name="tetsugaku" />。なお、当時は「鳥海山」という山名がなかったため、「飽海郡鎮座の大物忌神」と呼ばれていた<ref name="tetsugaku" />。
=== 出羽国一宮 ===
[[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])には『[[延喜式神名帳]]』により式内社、[[名神大社|名神大社]]とされた。また、『[[延喜式]]』の「主税式」においても祭祀料2,000束を国家から受けている。『延喜主税式』によれば、当時国家の正税から祭祀料を受けていたのは[[陸奥国]][[鹽竈神社|鹽竈社]]、[[伊豆国]][[三嶋大社|三島社]]、[[淡路国]][[大和大国魂神社|大和大国魂社]]と他に3社しかないことから、大物忌神社が国家から特別の扱いを受けていたことが覗える。
 
=== 中世 ===
当神社は[[出羽国]][[一宮]]とされ、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[正平 (日本)|正平]]13年([[北朝 (日本)|北朝]]の元号では[[延文]]3年、[[1358年]])、[[南朝 (日本)|南朝]]の[[陸奥守]]兼[[鎮守府将軍]]である[[北畠顕信]]が南朝復興と出羽国静謐を祈願した寄進書<ref>吹浦口之宮の所蔵文書で、昭和12年([[1937年]])国の[[重要文化財]]に指定されている。</ref>に出羽国一宮の記述が見える。これが文献上における一宮名号の初見であるとされる。
鳥海山における中世の信仰についてはまとまった記録が残っておらず、断片的な記録等から推測せざるをえないとされる<ref name="tetsugaku" />。そして、それらによれば、幕府や南朝の有力者が両所宮や両所大菩薩へ寄進を行っていたという<ref name="tetsugaku" />。
 
承久2年([[1220年]])、藤原氏(三善氏)が北条義時の命により、現在の遊佐町北目の新留守氏に「北條氏雑掌奉書」を送っており、同書に「出羽國両所宮修造之事」とあることから、大物忌神社が、鳥海山と月山の双方を祀る「両所宮」とされていたことがわかる<ref name="tetsugaku" />。
=== 一宮争い ===
鳥海山の登山口は、主要なものだけで矢島、小滝、吹浦、蕨岡の4ヶ所 ( [[鳥海修験]] も参照のこと。) があり、各登山口には大物忌神へ奉仕する宗徒社人が集って、連綿とした事由から互いに反目競争するに至っていたが、ついには[[庄内藩]]や[[江戸幕府]]の裁決を仰ぐことが少なからず起こるようになった。以下、そのいくつかを上げる。
 
南北朝時代に入ると、「鳥海山」という山名の使用がみられるようになる<ref name="tetsugaku" />。山中で発見された鰐口の銘に「暦応5年」([[1342年]]) の年号(北朝)がみられ、「奉献鳥海山和仁一口右趣意者藤原守重息災延命如」とあるのが、「鳥海山」という山名の初出とされる<ref name="tetsugaku" />。なお、戸川安章によれば、当時、鰐口は修験道の伽藍に掛けられるのが一般的だったため、鳥海山における修験道の出現は南北朝時代からであるとされる<ref name="tetsugaku" />。
 
当神社は[[出羽国]][[一宮]]とされ、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[正平 (日本)|正平]]13年([[北朝 (日本)|北朝]]の元号では[[延文]]3年、[[1358年]])、[[南朝 (日本)|南朝]]の[[陸奥守]]兼[[鎮守府将軍]]である[[北畠顕信]](北畠親房の次男)が南朝復興と出羽国静謐を祈願し、神領として「出羽國一宮両所大菩薩」に由利郡小石郷乙友村を寄進したことが、吹浦口之宮の所蔵文書である「北畠顕信寄進状」<ref>昭和12年([[1937年]])国の[[重要文化財]]に指定されている。</ref>に記されている<ref name="tetsugaku" />。これが文献上における一宮名号の初見であるとされる<ref name="tetsugaku" />。
 
なお、当時、吹浦の両所宮では鳥海山と月山の神とを「両所大菩薩」として祀っており、本地垂迹説に基づき、本地を薬師と阿弥陀とされていた<ref name="tetsugaku" />。
 
=== 一宮争い ===
* <div id="吹浦、蕨岡の論争">'''吹浦、蕨岡の論争'''</div>
*: 吹浦の社人蕨岡の信徒が行っていたような、鳥海中で修行は行わず、山上に祀られている鳥海山物忌神権現吹浦に[[遷宮|遷座]]したと説くと共に月山大権現[[分霊|とともにふもとに勧請]]し、両所宮として[[祀り、神宮寺]]の創建より隆盛で行事来た行うなどしていた<ref name="tetsugaku" />これ吹浦からの登拝は行っていたものの、山頂の権現堂は関与なかったため、蕨岡の信徒に比べると勢力的に弱かった<ref name="tetsugaku" />。蕨岡の宗徒社人は山上の鳥海山大権現の学頭[[別当]]と称し、直接山上に奉仕していた。おり、この考え方の違いがお互いに反目する原因となっていたが、蕨岡宗徒が吹浦からの登山者を差し止めたことから両者の論争となり、[[承応]]3年([[1654年]])ついに庄内藩や江戸[[寺社奉行]]に訴えが出された。幕府検使の臨検の後、[[明暦]]元年(1655年)に次の判決が出た。
*:# 訴えのあった[[神札|守札]]の書付について、吹浦は鳥海山と書いていた証拠が無いので両所山と書き、蕨岡は大堂のある松岳山と書いていた証拠があるので松岳山と書くこと。
*:# 吹浦からの登山者を蕨岡は差し止めないこと。
 
=== 明治以降 ===
[[明治]]元年([[1868年]])[[神仏分離|神仏分離令]]により当神社への対応で「大物忌神社」吹浦が蕨岡復した。先行することとなり、明治42([[1871年]])吹浦宮が[[近代社格制度|国幣中社]]に指定されたが、かつの信徒は全の一宮争いの神道を奉ずることもあとなり、明治143([[1881年]])山頂は社宮を国幣中社奉仕者たちが正式指定し直し神職となり麓の吹浦および蕨岡の殿を「口之宮」号も大物忌神社定めなっ。『出羽三山と修験道 戸川安章著作集Ⅰ』<ref name="sanzantetsugaku" />戸川安章 『出羽三山と修験道 戸川安章著作集Ⅰ』 ㈲岩田書院 2005年2月 より</ref>によ神宮寺等の仏教建築や仏像は撤去さ、明治4年(1871年)5月、吹浦と蕨岡それぞれに国幣中社大物忌神社は国幣中務所を置き、宮司は吹浦駐在するが列せられ本殿へ山頂奉幣は両社務所が1年交替権現堂の管理も行うきるこ改めたのだ言うなった<ref name="tetsugaku" />
 
吹浦の後から神道を奉ずるようになった蕨岡の信徒たちは、自分たちの権利を取り戻そうと山形県や明治政府に何度も請願して、訴訟も行ったが失敗した<ref name="tetsugaku" />。明治以降も吹浦と蕨岡の争いは続くかに思えたが、松方正義の意見により、明治13年([[1880年]])8月7日、左大臣有栖川宮熾仁親王から、山頂の権現堂を大物忌神社の本殿とし、吹浦と蕨岡の大物忌神社を、それぞれ里宮(後に口ノ宮)とする旨の通達が出され、明治14年に実施されたため、両者の争いは収束した<ref name="tetsugaku" />。この変則的な祭祀体制は、吹浦と蕨岡のそれぞれに国幣中社大物忌神社の社務所を置き、宮司は吹浦に駐在するが、本殿への奉幣は両社務所が1年交替で行うというものだった<ref name="sanzan">戸川安章 『出羽三山と修験道 戸川安章著作集Ⅰ』 ㈲岩田書院 2005年2月</ref>。
さらに同書によれば、[[第2次世界大戦]]後に[[社格#近代社格制度|旧社格]]が廃止されると、改めて吹浦を口之宮と定めて社務所をここに置き、蕨岡は摂社として遇される至ったのだと言う。[[昭和]]30年([[1955年]])社名を三社併せた総称として「鳥海山大物忌神社」へ改称し、現在は[[神社本庁]]が包括する[[別表神社]]となっている。
 
神仏分離による混乱・動揺の後、鳥海山への山岳信仰は再び盛り上がりをみせ、明治以降も登拝は盛んとなった<ref name="tetsugaku" />。特に第2次世界大戦中は登拝が多かったとされる<ref name="tetsugaku" />。
 
昭和30年([[1955年]])、大物忌神社が山頂と吹浦と蕨岡の3つの社の総社号とされ、吹浦と蕨岡は、それぞれ大物忌神社吹浦口ノ宮・蕨岡口ノ宮とされた<ref name="tetsugaku" />。
 
昭和47年([[1972年]])、[[鳥海有料道路|鳥海ブルーライン]]が開通すると、鳥海山は徐々に、山岳信仰の対象としてよりは観光の対象と認識されるようになり、信仰に基づく登拝は昭和40年代(1970年代)後半から、徐々に少なくなり、神仏習合や修験道が盛んだった時代の痕跡もほとんどみられなくなった<ref name="tetsugaku" />。
 
=== 神階 ===
[[鳥海山]]の噴火は[[大物忌神]]の神威の表れとされ、噴火のたびに朝廷より[[神階]]の陞叙が行われた。『[[続日本後紀]]』[[承和 (日本)|承和]]5年([[838年]])5月11日の条において[[従五位|従五位上]]であった大物忌神を[[正五位|正五位下]]に1級進めていることから、これ以前に神階の授位があったことは明らかであるが、文献上の記録が無いため最初の授位がいつかは不明である。以下は時系列的に並べた神階の授与である。
 
* 『続日本後紀』 承和5年(838年)5月11日の条 [[従五位|従五位上]]より[[正五位|正五位下]][[勲等|勳五等]]へ進1級の陞叙。
* 『続日本後紀』 承和7年([[840年]])7月26日の条
*: 正五位下勳五等を[[従四位|従四位下]]勳五等へ陞叙。前年に遭難した[[遣唐使|遣唐使船]]が海賊の襲撃にあった際、寡兵で海賊を撃退したが、これは同じ頃に噴火して神威を表した大物忌神の加護によるものであるとして、[[神封戸|神封]]2戸の寄進と共に[[仁明天皇]]の宣命が添え下された。
* 『日本三代実録』 [[貞観 (日本)|貞観]]4年([[862年]])11月1日の条 [[正四位|正四位下]]勳五等へ陞叙。また、[[延喜式神名帳|官社]]に指定された。
* 『日本三代実録』 貞観6年([[864年]])2月5日の条 正四位下勳五等より[[正四位|正四位上]]勳五等へ陞叙。
* 『日本三代実録』 貞観6年([[864年]])11月5日の条 正四位上勳五等より[[従三位]]勳五等へ陞叙。
* 『日本三代実録』 貞観15年([[873年]])4月5日の条
*: 従三位勳五等より[[正三位]]勳五等へ陞叙。貞観13年(871年)の大噴火沈静後、山頂社殿を再建し宿祷報祭記を行ったのを受け陞叙された。
* 『日本三代実録』 [[元慶]]2年([[878年]])8月4日の条
*: [[元慶の乱|秋田夷乱(元慶の乱)]]において朝廷軍が敗退したのを受け占ったところ、古来より征戦に霊験を有する大物忌神、[[月山神社|月山神]]、[[小物忌神社|小物忌神]]の3神が、神気賊に帰して祈祷が届かなくなってしまったと出た。そこで爵級を増せば霊応あるべしとして、正三位勳五等を正三位[[勲等|勳三等]]に進めた。『日本三代実録』によれば、これより前の元慶2年(878年)7月10日の条で[[神封戸|神封]]2戸が加増され、4戸となっている。
* 『日本三代実録』 元慶4年([[880年]])2月27日の条
*:正三位勲三等より[[従二位]][[勲等|勳三等]]へ陞叙。[[元慶の乱|秋田夷乱(元慶の乱)]]平定後、平時に復したのを受け陞叙となった。これが[[中世#日本|中世]]以前では最後の昇叙の記録であるが、『本朝世紀』天慶2年(939年)4月19日の条において[[出羽国|出羽]][[国司]]が官符を賜った時は[[正二位]]勳三等となっている。
* [[元文]]元年([[1736年]]) 蕨岡の願い出により[[正一位]][[勲等|勳三等]]に昇進。
 
== 境内の風景 ==
ファイル:Sanchou-Gohonsha Shinden.JPG|'''山頂御本社 本殿'''<br>風雨激しい鳥海山山頂にあることから、神殿は屋根覆いによって守られている。画像は本殿の内部。
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==== 山小屋 ====
山頂御本社の社務所に隣接する「山頂御室(おむろ)小屋」は、当社が管理している<ref name="lodge">[http://www9.plala.or.jp/thoukai/syuku/index.html 「宿泊施設」(鳥海山大物忌神社ホームページ)]</ref><ref name="guide">[http://chokaizan.com/route/lodge.html 「鳥海山の山小屋・宿泊施設」(「鳥海山登山ガイド」ホームページ、鳥海国定公園観光開発協議会)]</ref>。
 
御室小屋では、2011年から、毎年7月上旬から9月上旬まで、「鳥海山頂美術館」が開催されている<ref>[http://choukaizan.jimdo.com/ 鳥海山頂美術館ホームページ]</ref><ref>「鳥海山、天空の美術館好評 K2登頂小松さんの写真展開催」(河北新報、2014年7月6日)</ref>。
 
なお、御室小屋のほか、御浜小屋、河原宿小屋も当社が管理する山小屋である<ref name="lodge" /><ref name="guide" />。
 
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=== 吹浦口之宮 ===
ファイル:Hukura Ryoushogu.JPG|'''吹浦口之宮 本殿'''<br>2つ並んだ本殿の内、手前にあるのが大物忌神、奥が月山神である。<br />2神を祀る特徴的なこの配置が、両所宮と称される所以である。
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==== 雪見灯籠 ====
平成25年([[2013年]])4月、同社の責任役員であり平田牧場会長である新田嘉一氏の奉納により、吹浦口ノ宮の参道に、高さ約3.6m、周囲3m、重さ約19t(1基、台座も含む)という、巨大な雪見灯籠1対が設置された<ref name="yamagata">「巨大雪見灯籠、設置作業進む 遊佐・鳥海山大物忌神社の参道」(山形新聞、2013年4月7日)</ref>。この雪見灯籠は中国産の、淡いピンク色が特徴的な「桜御影石」から成る<ref name="yamagata" />。
 
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=== 蕨岡口之宮 ===
ファイル:Warabioka-kuchinomiya 2nd Gate.JPG|'''蕨岡口之宮 二の鳥居'''<br>二の鳥居の下まで行くと、テンプレート画像にある拝殿を兼ねた巨大な本殿が見える。
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==== 映画ロケ ====
2014年公開の映画『[[るろうに剣心 (実写映画)|るろうに剣心 京都大火編/伝説の最期編]]』では、蕨岡口ノ宮の境内でロケ撮影が行われており、緋村剣心と沢下条張が決戦を行う京都の神社として撮影された<ref>[https://www.yuzachokai.jp/topics/14182.html 「遊佐の映画史に新たな1ページ 映画「るろうに剣心」続編<ロケ>」(遊佐鳥海観光協会ホームページ)]</ref><ref>「山形:るろうに剣心、参勤交代 各地で大型映画ロケのワケ」(毎日新聞、2014年7月22日)</ref>。
 
== 祭事 ==
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