「サヌーシー教団」の版間の差分

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Tahuantinsuyo (会話 | 投稿記録)
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== イタリアとの戦い ==
[[1911年]]に[[伊土戦争]]が勃発し、[[イタリア王国]]がリビアに攻め込むと、サヌーシー教団はオスマン軍に協力して内陸部に逃れゲリラ戦を行い、イタリア軍を苦しめた。[[1912年]]に和平が結ばれ、キレナイカはイタリア領リビアとなった。
 
[[1912年第一次世界大戦]]に和平が結ばれ、キレナイカはイタ([[アフカ戦線 (第一次世界大戦)#北カ戦線|北となったがフリカ戦線]])中、サヌーシー教団は抵抗を続け、[[第一次世界大戦]]中もトルコの支援の下で抵抗を続け({{仮リンク|サヌーシー戦争|en|Senussi Campaign}})、イタリアと戦った。[[1920年]]に一時停戦が成立し、サヌーシー教団の指導者[[イドリース1世 (リビア王)|ムハンマド・イドリース]][[キレナイカ]]の支配者と認めたものの、[[1922年]]に[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]がイタリアの政権を握るとともに再び戦闘が勃発し、イドリースは[[エジプト]]に逃れた。しかしサヌーシー教団の[[オマル・ムフタール]]はなおも内陸部で抵抗を継続し、[[1931年]]までイタリア軍と戦い続けたが、同年捕らえられ処刑された<ref>「リビアを知るための60章」 p59 塩尻和子 明石書店 2006年8月15日</ref>。
 
その後もサヌーシー教団はエジプトのイドリースの元でイタリアと対立を続け、[[第二次世界大戦]]([[北アフリカ戦線]])においては[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]側に参加しイタリアと戦った。
 
== リビア独立 ==
[[1951年]]にリビア地域が独立する際、[[トリポリタニア]]・キレナイカ・[[フェザーン]]の3地域をまとめられる人物として、{{仮リンク|キレナイカ首長国|en|Emirate of Cyrenaica|label=キレナイカ首長}}だったムハンマド・イドリースが担ぎ出され、[[リビア連合王国]]の国王[[イドリース1世 (リビア王)|イドリース1世]]として即位することとなった。
 
その後、[[1969年]]に[[ムアンマル・アル=カッザーフィー|カダフィ]]による[[クーデター]]が起き、イドリースは亡命を余儀なくされた。