「アンクス・マルキウス」の版間の差分

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それを知った近隣部族は、今度のローマの王は戦争が苦手だと侮り攻撃を開始した。しかしアンクスは非戦的であるという予想を裏切り、見事な軍の指揮を行った。ローマはフェデナイ人、アニオ川中流のサビニ人、カンパニア地方のウォルスキ人と戦って勝利を収め、近隣の都市一つを屈服させた。彼は先王トゥッルスと同じく、屈服した都市の建物を破壊して住民はローマに強制移住させる。またアンクスは北方の[[エトルリア人]]に備えるためヤニクルムの丘に要塞を作った。さらにローマから26km離れた漁村の[[オスティア]]を征服し、ここをローマの外港とした。
 
アンクスは平時の治世にも能力を発揮した。敵を強制移住させて増えた人口に対応するため、ローマの7つの丘の一つである[[アウェンティヌス]]の丘がローマの市街地に組み込まれる。また、いかだ橋しかなかった[[テヴェレ川]]に初めて堅固な橋を作る。さらに水道橋を建造することでローマに初めて水道を引いた。また宗教儀式などの制定にも努め、後のローマに伝わる慎重な宣戦布告手順を考案したとも言われている。
 
アンクスは[[紀元前616年]]に病死する。彼には2人の息子がいたが、その後見人であったエトルリア人の[[タルクィニウス・プリスクス]]が第5代の王となり、ラテン人とサビニ人が王位を交代していた時代が終わる。アンクスの2人の息子は王位を狙ってタルクィニウス・プリスクスを[[暗殺]]するが、その後を継ぐことに失敗し、ウォルキスの村で乞食となる末路を辿ったと言われている。