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'''安達 泰盛'''(あだち やすもり)は[[鎌倉時代]]中期の武将。[[鎌倉幕府]]の有力[[御家人]]。[[安達義景]]の3男。[[評定衆]]、[[御恩奉行]]。
 
鎌倉幕府第8代[[執権]]・[[北条時宗]]を[[外戚]]として支え、幕府の重職を歴任する。[[元寇]]・[[御家人]]の零細化・[[北条氏]]による[[得宗専制]]体制など、御家人制度の根幹が変質していく中で、その立て直しを図り、時宗死後に[[弘安徳政]]と呼ばれる幕政改革を行うが、[[内管領]]・[[平頼綱]]との対立により、[[霜月騒動]]で一族と共に滅ぼされた。
 
元寇にあたって御恩奉行を務め、自邸で[[竹崎季長]]の訴えを聞く姿が『[[蒙古襲来絵詞]]』に描かれている。
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== 生涯 ==
=== 青年期 ===
[[寛喜]]3年([[1231年]])、[[安達義景]]の3男として誕生。母は[[甲斐源氏]]の一族[[伴野時長|伴野(小笠原)時長]]の娘。父義景は22歳、2人の兄がいるが、泰盛は当初から安達氏嫡子の呼び名である「九郎」を名乗っており、安達家の跡継ぎとして周知されていた。生まれた当時、幕府は3代[[執権]][[北条泰時]]の時代で、泰時の孫で泰盛の従兄弟にあたる5代執権[[北条時頼|時頼]]の4歳下でほぼ同世代である。
 
『[[吾妻鏡]]』における初見は泰盛が当時15歳であった[[寛元]]2年([[1244年]])6月17日条で、父義景の代役で[[大番役]]を務める[[上野国]]の御家人らの[[番頭]]として上洛した記録である<ref>『吾妻鏡』寛元2年6月17日条。[[新田政義]]が無断出家(自由出家)の罪により所領の一部を没収され、[[惣領]]の座を追われた時の様子が書かれている。<br>寛元二年六月小十七日丙戌。[[新田政義|新田太郎]]爲令勤仕[[京都大番役|大番]]在京。是爲[[上野國]]役之故也。而稱所勞。俄遂[[出家]]。但不[[触|相觸]]事由於[[六波羅探題|六波羅]]并[[番頭]]'''城九郎泰盛'''等之由。依有注進状。今日評定之次。被經沙汰。任被定置之旨。可被召放所領之由被定云々。又於[[遠国|遠國]]雜訴人者。[[収穫の時|西収]]以前。不可被成召文[[御教書]]之旨。被儲法云々。</ref>。この記述に「'''城九郎泰盛'''」の名が明確に見られることから、この時までに[[元服]]している筈であり、「泰」の字が付いていることから、[[仁治]]3年[[6月15日 (旧暦)|6月15日]]([[1242年]][[7月14日]])まで執権であった北条泰時から[[偏諱]]を受けたことが分かる<ref>[[貫達人]] 「円覚寺領について」(所収:『[[東洋大学]]紀要』第11集、1957年)P.21。</ref>。弓馬に優れた泰盛は将軍興行の遠[[笠懸]]、[[犬追物]]などの射手として頻繁に名が見える。泰盛17歳の[[宝治]]元年([[1247年]])、有力御家人[[三浦氏]]と[[執権]][[北条時頼]]の対立による[[宝治合戦]]が起こり、祖父[[安達景盛|景盛]]の叱咤を受けた泰盛は、安達家の命運を賭けた戦いの先鋒として戦った。三浦氏の滅亡により、執権北条氏の外戚として時頼政権を支える安達氏の地位が確立した。
 
[[建長]]5年([[1253年]])6月に義景が死去し、泰盛は23歳で家督を継いで[[秋田城介]]に任ずる。父の後を受けて一番[[引付衆]]となり、[[康元]]元年([[1256年]])には5番[[引付頭人]]、同時に[[評定衆]]となって執権時頼を補佐した。翌康元2年([[1257年]])には、甘縄の安達邸で誕生した時頼の[[嫡子]][[北条時宗|時宗]]の元服の際には[[烏帽子]]を持参する役を務める<ref>『[[吾妻鏡]]』康元2年2月26日条、[[佐藤和彦]] 「北条時宗とその時代」(佐藤和彦・[[樋口州男]]『北条時宗のすべて』([[新人物往来社]]、2000年)p.11~12)。</ref>。父の死の前年に産まれた異母妹([[覚山尼]])を[[猶子]]として養育し、[[弘長]]元年([[1261年]])に時宗に嫁がせて北条[[得宗]]家との関係を強固なものとした。[[弘長]]3年([[1263年]])に時頼が没すると、泰盛は時宗が成人するまでの中継ぎとして執権となった[[北条政村]]や[[北条実時]]と共に[[得宗]]時宗を支え、幕政を主導する中枢の一人となる。[[文永]]元年([[1264年]])から同3年まで実時と共に[[越訴頭人]]を務める。
 
=== 蒙古襲来期 ===
[[文永]]3年([[1266年]])6月、[[連署]]時宗邸で執権政村・実時・泰盛による「深秘の沙汰」が行われ、謀反を理由に[[征夷大将軍|将軍]]・[[宗尊親王]]の帰洛が定められた。代わって3歳の[[惟康親王]]が新将軍として鎌倉へ迎えられ、幼少の親王を将軍につけることで時宗の権力を固める意図であった。泰盛は将軍への救心性を持ちながらも時宗を支持したと見られる。[[文永]]5年([[1268年]])、幕府が[[元寇|蒙古襲来]]の危機を迎える中、18歳で時宗が執権となる。
 
泰盛は文永11年([[1274年]])の[[文永の役]]後に[[御恩奉行]]となり、将軍惟康親王の安堵の実務を代行した。得宗家との親密な関係の一方、将軍[[宗尊親王]]、[[惟康親王]]との関係も密接であり、将軍の親衛軍、側近の名簿には必ず泰盛の名が見える。3代将軍[[源実朝]]の未亡人[[坊門信子|西八条禅尼]]は、文永9年([[1272年]])に実朝の菩提寺照心院に宛てた置文に、寺の諸問題が起きた時には、実朝に志し深かった[[安達景盛]]の孫である泰盛を頼るように記しており、京都の貴族層と将軍の仲立ちを務めていた。
 
時宗は文永9年(1272年)2月の[[二月騒動]]で同族内の対抗勢力を排除して得宗独裁の強化を図り、安達家でも、泰盛の庶兄の[[安達頼景]]が所領2か所没収を命じられた。文永10年([[1273年]])に宿老政村が死去、実時もこの頃に引退・死去しており、文永年間以前まで見られた北条一門は[[寄合衆]]のメンバーから消え、[[得宗]]家被官である[[御内人]]が台頭してくる。[[建治]]年間の寄合衆メンバーは御内人の[[平頼綱]]、[[諏訪真性]]、文官の[[太田康有|三善康有]]などで御家人は泰盛のみであった。時宗政権を支えた二本柱は頼綱を筆頭とする得宗被官と、外戚で[[外様]]御家人の安達氏を代表する泰盛であったが、御内人と外様御家人という両者が時宗と結ぶ関係のあり方は対照的で、両者の対立は必然であった。[[建治]]3年([[1277年]])12月、時宗の嫡子[[北条貞時|貞時]]の[[元服]]に際し、泰盛は[[烏帽子]]を持参する役を務めて<ref>『[[建治三年記]]』12月2日条。</ref>その後見となる。[[弘安]]4年([[1281年]])の[[弘安の役]]後、弘安5年([[1282年]])、52歳の泰盛は[[秋田城介]]を嫡子[[安達宗景|宗景]]に譲り、代わって[[陸奥守]]に任じられる。陸奥守は幕府初期の[[大江広元]]、[[足利義氏 (足利家3代目当主)|足利義氏]]を除いて北条氏のみが独占してきた官途であり、泰盛の地位上昇と共に安達一族が引付衆、評定衆に進出し、北条一門と肩を並べるほどの勢力となっていた。
 
=== 弘安改革 ===
弘安7年([[1284年]])4月、[[元寇]]後の恩賞請求や訴訟が殺到し、再度の蒙古襲来の可能性など諸問題が山積する中で時宗が死去する。14歳の嫡子[[北条貞時|貞時]]は北条一門が平頼綱と連動して不穏な動きを見せる中、7月に9代執権に就任した。時宗に追随して出家した泰盛は法名覚真と称し、幕政を主導する立場となると後に弘安徳政と呼ばれる幕政改革を行い、「[[新御式目]]」と呼ばれる新たな法令を矢継ぎ早に発布した([[弘安徳政]])。その規模と時期から見て、時宗存命中からその了承の元に準備されていたものと見られる。将軍権威の発揚を図り、[[引付衆]]などの吏員には職務の厳正と清廉を求めた。得宗には実務運営上の倫理を求め、[[御内人]]の幕政への介入を抑制する事、[[伊勢神宮]]や[[宇佐神宮]]と言った有力寺社領の回復に務める事、[[朝廷]]の[[徳政]]推進の支援などが行われた。これによって伝統的な秩序を回復させて社会不安の沈静化に務めると共に、[[本所一円地]]住人の御家人化を進めて幕府の基盤の拡大と安定を図り、幕府の影響力を寺社・朝廷にまで広げて幕府主導による政治運営の強化、国政改革を行おうとしたと考えられている。ほぼ同時期に京の朝廷でも[[亀山天皇|亀山上皇]]による朝廷内改革・徳政が行われており、泰盛と上皇の連動性が指摘されている。だが、御内人の抑制ではその代表である[[内管領]][[平頼綱]]と対立し、性急な寺社領保護によって寺社への還付を命じられた一部御家人や[[公家]]の反感を招き、泰盛は次第に政治的に孤立していく事になる。
 
=== 霜月騒動 ===
{{Main|霜月騒動}}
翌[[弘安]]8年([[1285年]])、頼綱は泰盛の子[[安達宗景|宗景]]が[[源氏|源]]姓を称した事をもって[[征夷大将軍|将軍]]になる野心ありと執権貞時に讒言し、泰盛討伐の命を得た。11月17日、この日の午前中に松谷の別荘に居た泰盛は、周辺が騒がしくなった事に気付き、昼の12時頃、塔ノ辻にある出仕用の屋形に出向き、貞時邸に出仕した所を待ち構えていた御内人らの襲撃を受け、死者30名、負傷者10名に及んだ。これをきっかけに大きな衝突が起こり、将軍御所は延焼し午後4時頃に合戦は得宗方の先制攻撃を受けた安達方の敗北に帰し、泰盛とその一族500名余りが自害して果てた。頼綱方の追撃は安達氏の基盤であった上野・[[武蔵国|武蔵]]の他、騒動は全国に波及して泰盛派の御家人の多くが殺害された。
 
この[[霜月騒動]]と呼ばれる内乱の結果、平頼綱が実権を握り、泰盛を支持した幕府草創以来の有力御家人の多くが没落して得宗被官の[[長崎氏]]や文官の[[二階堂氏]][[長井氏]]が政治の中心となる。
 
頼綱は霜月騒動の7年後、[[平禅門の乱]]で貞時によって滅ぼされた。霜月騒動で失脚した御家人たちも徐々に復帰し、安達一族も泰盛の弟[[安達顕盛|顕盛]]の孫である[[安達時顕]]が安達家の家督を継承している。頼綱滅亡の翌年には騒動の罹災者の復権が進んだが、時顕が[[文保]]元年([[1317年]])に霜月騒動で討たれた父宗顕の33回忌供養を行った際の記録には、その頃まで泰盛の供養がタブーであった事が記されている。
 
== 人物 ==