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[[File:Taguchi Ukichi.jpg|thumb|田口鼎軒 /『明治人物評論』より]]
[[File:Taguchi Teiken at 45 years old.jpg|thumb|田口鼎軒]]
'''田口 卯吉'''(たぐち うきち、
==略歴==
[[幕臣]]の子で、[[江戸]]目白台の徒士屋敷(現東京都文京区目白台の[[日本女子大学]]敷地内)に生まれる。父は西山家から養子に入った樫郎、母は町子。田口家は初代右衛門が将軍・[[徳川吉宗]]の従士として使えて以来の家系で、のちに零落し、[[天保]]12年(1841年)に[[佐藤一斎]]が株を買い、一斎の長男である慎左衛門が継ぐ。慎左衛門の娘町子は井上家に嫁いだ後に後家となり、樫郎を婿に迎えた。
安政6年([[1859年]])に父の樫郎、翌年には長兄の貫一郎が相次いで死去し、[[家督]]を相続。慶応2年([[1866年]])に元服して従士見習いとなるが、12月に幕府の軍制改革で従士組が廃止され、新設の銃隊に配属される。また、[[昌平坂学問所]]でも学んでいる。同年には異父姉の[[木村鐙子|鐙子]]が但馬[[出石藩]]の儒
明治4年([[1871年]])[[廃藩置県]]で静岡藩が解消され主な人材が東京へ移ると、卯吉も乙骨とともに上京する。島田とともに薬屋を志し、開校予定の科学専門学校に応募するが開校は中止となり、大学予備門に入学するがほどなく退学している。[[尺振八]]の私立共立学舎に入学し、翌明治5年([[1872年]])に大蔵大輔[[井上馨]]と[[渋沢栄一]]が人材育成機関として構想した[[大蔵省]]翻訳局が発足し、乙骨や尺が登用されると島田とともに応募し上等生徒となる。翻訳局では経済学や西洋文明史が教授され、このころに[[フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー|ギゾー]]などの影響を受け医科から転向したといわれ、また[[キリスト教]]にも接している。だが、明治6年([[1873年]])に井上や渋沢が辞し、続いて大蔵卿に[[大隈重信]]が就くと組織改編で翻訳局は縮小され、翌年には廃止となり卯吉は大蔵省[[紙幣寮]]に異動となる。明治9年([[1876年]])には旧幕臣の娘・千代と結婚。著述活動をはじめ、明治10年([[1877年]])に自費出版で『[[日本開化小史]]』を刊行開始。翌明治11年([[1878年]])には『自由交易日本経済経済論』を出版。同年には[[沼間守一]]らの[[嚶鳴社]]設立に島田とともに発起人として参加し、[[演説]]活動も行っている。
翌明治12年([[1879年]])に大蔵省を辞職し、翻訳業を手がけつつ新聞への投書や著述活動を行い、同年には[[イギリス]]の『エコノミスト』誌を範とした『東京経済雑誌』を創刊し、[[自由主義]]の立場での論陣を張った。明治13年(1880年)には[[東京府]]会議員となり、憲法制定や、[[条約改正]]などの政治問題に関しても発言。[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]機関紙『[[自由新聞]]』の客員も務める。
[[実業家]]としては、東京府知事・[[高崎五六]]から提案された府の[[士族授産]]金処理事業としての南洋交易を引き受け、明治23年([[1890年]])に[[南島商会]]を組織し、貿易船天祐丸で南洋渡航を行う。東京株式取引所(現[[東京証券取引所]])、[[鉄道]]経営においては明治20年([[1887年]])に[[両毛鉄道]]社長、21年に小田原電気鉄道(現[[箱根登山鉄道]])取締役などを務める。
明治23年(1890年)には府会副議長となり、明治27年(1894年)には[[尾崎三良]]らと[[帝国財政革新会]]を結成し、この年には衆議院議員に当選する。明治29年([[1896年]])には[[進歩党 (日本 1896-1898)|進歩党]]を結成、明治30年([[1897年]])には
== 著作 ==
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