「島原大変肥後迷惑」の版間の差分

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その後、地震は島原の近くに震源を移し、有感地震が続いた。4月21日からは、島原近辺での地震活動が活発になった。
 
群発地震が収まりかけたかに見えた5月21日の夜、2度の強い地震が起こり、眉山の南側部分が大きく崩れ、3億4000万立方メートルに上る大量の土砂が<!--土石流となって-->島原城下を通り[[有明海]]へと一気に流れ込んだ。これは[[日本三大崩れ]]のうち[[大谷崩れ]]、[[稗田山崩れ]]の崩壊土砂量を上回り、この時の死者は約5,000人と言われている。眉山崩壊の原因については、眉山の火山活動によって直接起こったものか、雲仙岳の火山性地震によって誘発されたものであるかは、現在でも定かではない。
 
山体崩壊で大量の土砂が有明海になだれ込んできた衝撃で10メートル以上の高さの[[津波]]が発生し、島原の対岸の肥後天草にも襲いかかった。大量の土砂は海岸線を870メートルも沖に進ませ、島原側が高さ6〜9メートル、肥後側が高さ4〜5メートルの津波であったと言う<ref>宇野木早苗、久保田雅久  『海洋の波と流れの科学 』 1996, 東海大学出版会、p103</ref>。肥後の海岸で反射した返し波は島原を再び襲った。津波による死者は島原で約10,000人、対岸の熊本で5,000人を数えると言われている<ref name="tino" />。津波のエネルギーは崩壊した土砂の持っているポテンシャルの1/100から1/1000程度に過ぎないとされるが、ここからも陸上に堆積した土砂の量が甚だ多かったことが判る。