「松平康郷 (久松松平家)」の版間の差分
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'''松平 康郷'''(まつだいら やすさと、[[
[[伊勢国|伊勢]][[長島藩]]第2代藩主[[松平忠充]]の五男。母は側室。官位は従五位下、伊勢守、安房守、豊前守、因幡守、中務少輔。初名は尚慶。子に[[松平康眞]]、[[水野勝羨]]、[[松平郷至]]、[[最上郷倍]]、[[戸田氏永]]ら。
[[元禄]]15年([[1702年]])8月21日、父の[[改易]]に伴い長島藩は廃藩、代わって兄の[[松平康顕|康顕]]が[[信濃国]][[佐久郡]]5,000石(下県知行所)を、康郷も同地に1,000石を賜り、各々[[寄合]]に列する。
元禄16年([[1703年]])3月28日、将軍[[徳川綱吉]]に拝謁する。[[正徳 (日本)|正徳]]2年([[1712年]])、康顕の養子となり、自身の1,000石は収公されたが、正徳3年([[1713年]])2月24日、康顕の死去に伴い、遺領の5,000石を相続し、同4月1日、改めて将軍[[徳川家継]]に拝謁する。
[[享保]]元年([[1716年]])12月19日、中奥の御小姓、
[[元文]]4年(1739年)9月6日から[[寛延]]4年([[1751年]])3月25日まで[[駿府城|駿府城代]]を務めた後、[[江戸城]]西の丸の御側に移る。この際、吉宗から刀を拝領する。[[宝暦]]10年(1760年)、将軍[[徳川家治]]が江戸城本丸に移るのに従い、政事を執啓する。宝暦12年(1762年)12月25日、家治次男の[[徳川貞次郎]]誕生の時、[[時服]]6領と白銀50枚を賜わる。
[[明和]]2年(1765年)1月28日、[[下総国]]飯笹6000石(下総国[[香取郡]]、[[上総国]][[埴生郡 (上総国)|埴生郡]]、同[[長柄郡]]、[[武蔵国]][[秩父郡]])に加増転封となる。
[[安永 (元号)|安永]]元年([[1772年]])7月2日に致仕し、服5領と養老料として廩米500俵を賜り、また[[天明]]6年([[1786年]])家治50歳の祝宴の際、八丈縞3端を賜る。
寛政元年(1789年)に江戸で死去。享年97。法名は道仙。[[橋場]]の[[総泉寺]]に葬られた。子孫は幕末まで旗本として存続する。
== 参考文献 ==
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[[Category:久松松平氏|やすさと]]
[[Category:江戸幕府旗本]]
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[[Category:1789年没]]
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