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領域について修整;キン族はこの時代まだ南進すらはじめておらず記述の必要なし;ほかlkなど;要出典
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{{出典の明記|date=2015年1月}}
{{redirect|扶南|[[雅楽]]の曲目(唐楽、平調)|扶南 (雅楽)}}
[[画像:Funan Kingdom.png|thumb|250px|扶南国の版図]]
{{カンボジアの歴史}}
'''扶南国'''(ふなんこく)は、[[1世紀]]から[[7世紀]]にかけて[[メコン川]]下流域(現在の[[カンボジア]]、[[ベトナム]]南部)から[[チャオプラヤー川|チャオプラヤーデルタ]]かけて栄えた[[ヒンドゥー教]]・[[仏教]](5世紀以降)の古代国家。首都は{{仮リンク|コンポントム (市)|en|Kampong Thom (city)|label=コンポントム}}{{要出典|date=2015年1月}}。
 
==歴史==
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=== 扶南の起源 ===
[[3世紀]]頃の[[南京]]にあった[[呉 (三国)|呉]]の官僚の報告書に同時代の東南アジアの国家の存在が出ている。しかし、扶南という名称は出ておらず、当時の現地人がどのような名前で国を呼んでいたかは明らかではない。後述する民族についての考察からも、1世紀頃に[[オーストロネシア語族|オーストロネシア]]系が扶南をたてたとする説が有力である。[[629年]]に完成した[[梁書]]によれば、扶南をたてた人物は「徼」(マレー半島かインドネシアの島と言われている)から来た外国人「混塡」(Kaundinya I)である。混塡は土地の女王「柳葉」(Queen Soma)と結婚し、その子供に王権を与えると、その子供は七つの町<ref>柳葉と混塡を[[ナーガ]]の伝説をなぞらえた話。</ref>を作ったと伝えられている。同様の話は晉書にも伝えられている。4世紀頃から[[チャンパ王国]]に[[ミーソン聖域]]の建設が開始され、扶南滅亡後の[[658年]]の日付で同様の話が記録されている。
 
[[インドシナ半島]]では1世紀ころから[[インド]]文化が伝わり、扶南もその文化的影響を強く受けていた。[[ヒンドゥー教]]が伝わると官僚として多くのインド人が採用され、[[サンスクリット]]語が法律用語として使われた。
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[[Image:Map_indianized_kingdoms_indochina.jpg|thumb|220px|left|扶南国の地図</br>驃国(Sri Ksetra)</br>ドヴァーラヴァティー</br>扶南(Fou-Nan)</br>チャンパ]]
<!-- [[Image:FunanMap001.jpg|thumb|250px|left|扶南国の地図]] -->
つまり扶南は、「インドシナ」半島の国家らしくインドとシナ(中国)両国の影響を受けた国家であった{{要出典|date=2015年1月}}。実際、扶南はインド・中国間の海上交易ルートの中継地として大いに栄え、とりわけ[[シャムタイランド湾]]に面した外港[[オケオ]]には交易による商品と後背地からの様々な産物が集積され、活況を呈していたと考えられている。
 
=== 扶南の滅亡 ===
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==民族==
扶南をたてた民族については、従来[[クメール]]系と考えられていたが、近年では[[オーストロネシア語族|オーストロネシア]]系ともされる。いずれにしても近代ベトナムの民族系統が北ベトナム[[紅河]]流域を中心に[[大越国]]を建てるのは10世紀のことであり、[[キン族|ベト族]]とは異なる民族が扶南をたてたのは確かである。
 
==中国史書による記録==