「線ファスナー」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
純之助 (会話 | 投稿記録)
→‎歴史: 文章推敲
69行目:
*[[1927年]]頃 - 日本でも[[広島県]][[御調郡]][[向島 (墨田区)|向島]]の[[日本開閉器工場]](日本開閉機会社、日本開閉器商会とも)がファスナーの製造を開始し、その分派会社の「チャック・ファスナー」社が、[[巾着]]をもじった「チャック印」という商標で販売した<ref name="htv"/>。日本でファスナーが「チャック」と呼ばれるのはこのためであり、外来語ではなく日本独自の呼び方である。
*[[1950年]] - 吉田工業株式会社(現在の[[YKK]])が自動植付機(チェーンマシン)をアメリカから4台のみ輸入。輸入のために日本興業銀行から1,200万円の借り入れをした。
同社は、このチェーンマシンと同種の機械を100台、日立精機に1台12万円、支払いは30台ずつの条件で発注した
発注した機械は、1951年5月に10台、8月に20台、1953年の7月に100台目が納入された。
*[[1951年]] - ドイツ・OPTI社により開発され画期的なジッパーであるコイルタイプといわれる夢のジッパーが日本で発売開始された。当時、このタイプのジッパーは、軽くて、壊れい、強力であという、他と一線を画する利点の有る画期的な商品であった。そのために夢のジッパーと言われていた。その後、OPTI社の正規ライセンス契約を神奈川県の企業(日本シンプが取得し、軽くて、壊れない、強力であるというメリットがあるこのジッパーが鞄、服を問わず、大掛かりに普及することとなった
しかし[[1960年]]頃までは、当時のTALON社の米国での生産シェアは90%前後であった。これに対して、世界でのTALONのシェアは50%以上を確保していた。[[ヴィンテージ]]ものの衣服やかばん雑貨品などに使われているジッパーにTALONブランドのファスナーが採用されているのは、このためである。
 
その後の日本国政府の輸入規制によって([[1990年]]以前頃まで)、外国製品の輸入が抑えられたことから、日本国内の市場に外国製品は流通しなかった。