「蜂須賀正氏」の版間の差分

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Claw of Slime (会話 | 投稿記録)
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戦争末期には自家用機で日本脱出を計画して問題となったり、[[子爵]][[高辻正長]]と共謀して[[白金]]の密輸に関与した廉で[[検察]]の取調べを受けたりするなど醜聞にまみれ、「醜類有爵者」と嘲笑された。密輸の件では[[1945年]][[5月10日]]に[[国家総動員法]]違反容疑で起訴。[[1945年]][[7月28日]]、敗戦直前に[[爵位]]を返上して[[平民]]となる。戦後は、在米中に結婚した智恵子夫人との壮絶な離婚訴訟や、遺産相続の揉め事、財宝の行方不明事件、[[横井英樹]]への貸し金をめぐる訴訟などで[[週刊誌]]に数多くのゴシップを提供した。
 
[[1953年]]、日本生物地理学会の会長に就任。畢生の論文「ドードーとその一族、またはマスカリン群島の絶滅鳥について」([[1953年]])を[[北海道大学]]に提出、[[理学博士]]号を取得したが、まもなく[[狭心症]]により熱海で死去した。享年50。墓所は蜂須賀家歴代の墓所のある[[徳島市]]の[[徳島藩主蜂須賀家墓所|万年山墓地]]。法名は理光院。
 
[[東京]][[三田 (東京都港区)#二丁目|三田二丁目]]の5万坪の旧邸は、[[1950年]]暮に[[オーストラリア]]政府に売却され、現在[[駐日オーストラリア大使館]]となっている。