「ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョ」の版間の差分

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== 専制支配 ==
この成功に気を良くしたジョゼ1世は、さらに独裁的な権力をカルヴァーリョに与え、自分は政務に関心を示さず、狩猟や馬術に没頭していた。だが、カルヴァーリョの権力が拡大すると、これを快く思わない貴族たちの反感が高まり、[[1758年]]にジョゼ1世暗殺未遂事件([[:w:Távora affair|Távora affair]])が起こった。カルヴァーリョは大貴族に対する大弾圧に乗り出し、1,000人以上を逮捕、被告は拷問によって自白を強いられた。ポルトガル最大の貴族アヴェイロ公爵{{enlink|José de Mascarenhas da Silva e Lencastre, Duque de Aveiro||pt|a=on}}は四肢切断のうえ[[火刑]]に処せられた。次にタヴォラ侯爵{{enlink|Francisco de Assis de Távora||pt|a=on}}も[[車裂き]]の刑に処され、主だった貴族は処刑、投獄、追放を余儀なくされた。国王の非[[嫡出]]の兄弟姉妹であっても例外にはならず、カルヴァーリョに敵視され[[修道院]][[幽閉]]される者もいた。[[イエズス会]]も陰謀に加わったとみなされ、翌年にはポルトガルから追放され、その巨大な財産は没収された。イエズス会はブラジルの内陸部に広大な宣教地を有し、同時に豊かな農園と都市部の不動産を握っていたことからも、ブラジルを国家の富と個人的利益の源泉とみなしていたカルヴァーリョにとって排除の対象だった。[[1768年]]には、国家から独立的な権力を行使していた[[異端審問所]]を国家に従属する国王裁判所に再編し、その長官に弟のパウロ・カルヴァーリョを任命している。
=== 審問会 ===
カルヴァーリョは経済的発展のために[[ユダヤ系ポルトガル人]]に対する制度的な迫害を撤回しようとしていたが、イエズス会にとっては認めがたい方針であり、審問所の持つ権限を妨害に用いていた。カルヴァーリョは敵対したイエズス会を陰謀への加担を理由として排除した後、審問所の機能を残したまま主管を教会から国家に移して敵対者の排除に利用した。カルヴァーリョはキリスト教徒、[[ユダヤ教徒]]らに同等の法的権利を与え、さらにはポルトガル本国内に[[黒人奴隷]]をもちこんだ場合、即時の奴隷の解放を義務付けた。これにより、ポルトガル本国に奴隷をもちこむことは不可能となる。これは啓蒙主義的な観点からの奴隷解放ではなく、労働力が不足しがちな植民地から奴隷が連れ出されるのを防ぐための労働力確保を目的とした政策であった。
=== ブラジル運営 ===
カルヴァーリョの商業政策は[[ブラジル]]の農業生産の拡大と、生み出された富を貿易会社によって独占し、国王の支持者らに運営させる点に特色があった。そのためにポルトガルの利益を阻害する[[イギリス]]商人らを規制し、国税を納めなかったイエズス会の資産を没収した。イギリスはポルトガルの友好国であり、その経済活動への妨害は関係の悪化を危惧するところであったが、カルヴァーリョは規制前にイギリス商人らを調査し、政治的影響力の少ない小規模仲買人がほとんどと把握していた。ポルトガルはスペイン、フランス、オランダとの対立の中で、南米の利権をイギリスとの同盟で維持しているだけに、イギリスと明確に対立する政策については慎重だった。一方、イエズス会については当時からすでにイエズス会以外の聖職者から[[拝金主義]]を糾弾されており、宗教界全体の反発には繋がらなかった。カルヴァーリョはイエズス会から剥奪した財産をポルトガル商人に安価で提供し、新たなブルジョワジー層の育成を促した。しかし一方ではこの時に相次いで生まれたブラジルの[[ファゼンダ|大土地所有]]者が自立し、ブラジルの独立意識を高めていくことになる。
=== アフリカ運営 ===
ブラジルは次第に自立を志すようになり、カルヴァーリョの努力に関わらずブラジルに対する支配力は年々低下していった。当時のポルトガルは保護商品を高値で独占市場に売りつけるという[[植民地]]運営を行っていたが、ブラジルが豊かになるにつれて消費者がイギリス製品を選択するようになり、ポルトガルは競争に敗れた売れ残り品を大量に抱えるようになっていた。ポルトガルは他に独占的な市場をつくる必要が生じ、[[リスボン]]の商人らはアフリカの[[アンゴラ]]の市場に目をつける。たちまちアンゴラはポルトガル製品の廃棄場となり、ブラジルでの売れ残りが売りつけられ、代わりに奴隷が輸出されていった。ポルトガルはリスボン商人に有利なようにアンゴラのアフリカ商人に規制を加えたが、アンゴラ北部にイギリス人が港を開くと、アフリカ商人たちはポルトガルの規制を嫌い、以後奴隷の供給はイギリスに向けられた。
=== ポートワイン ===
1720年代頃から[[ポルト]]の商人たちはイギリスへの[[ワイン]]の輸出を行っていた。イギリスにとって、政治に影響されやすい[[フランスのワイン]]は供給に不安があり、スペインのワインはポルトガルに比べて質で劣っていたため、代用品として[[テーブルワイン]]の需要があった。ポルトにはイギリス商人たちが買い付けに訪れたが、イギリス商人たちは自分たちの足で農家に出向き、直接舌で確認して買い付けていた。そのため、ポルトガルのワインはイギリスの需要を満たすために質が維持されていた。1730年代にイギリス商人たちは、[[ドウロ川|ドーロ]]産の最高級ワインにイギリス産[[ブランデー]]を混ぜてアルコール度数を高め、熟成させた[[ポートワイン]]を作り出す。これにより、ワインに付加価値がつき、ポルトにおけるイギリス商人たちはより大きな利益を手にした。しかし、ワインのノウハウがないポルトガルの商人たちにポートワインの作成は不可能であり、原料のワインを長年にわたって供給するだけで利益は以前のままだった。1750年代に入ると、ポルトガルの安価なワインに付加価値をつけて利益を稼ぐイギリス商人の成功がカルヴァーリョの注意を引くようになる。
 
1756年、カルヴァーリョはワイン会社を設立し、カルヴァーリョは自らの所有する葡萄園をドーロと無関係の土地でありながら指定原産地に加え、樹齢の高いブドウの木を伐らせることでワインの供給量を制限し、同時に質を高めてイギリス商人への販売価格を押し上げた。また、会社の運営費は都市や教会で高い地位にある者に無理に要請して投資させたものであり、その富の分配で中産階級を増加させた。しかし富を得たのはカルヴァーリョら指定原産地となった農家だけであり、イギリス商人が直接買い付けに農家を回って品質を確保することもなくなったので、かえって質の低下を招いてポルトガルワインの輸出は全体的に見ると低下した。また、強力にワインの専売化が推し進められ、一般大衆の安価なものですら対象となったため、民衆の暴動を招いた。カルヴァーリョは30名を絞首刑にすることで暴動を鎮圧した。
 
=== 工業化 ===
ポートワイン自体は[[オクスフォード大学|オクスフォード]][[ケンブリッジ大学|ケンブリッジ]]などの大学でブームとなり、事業自体は成功を収めた。しかし、ポルトガルの質の劣るものでも植民地に売りつけるという基本方針は競争力の低下を招き、1760年代のポルトガルはワインしか輸出品目のない工業化の遅れた後進国と化していた。かつてポルトガルでは100年ほど前、エリセイラ伯が工業化に取り組み挫折するという経験をしていたが、カルヴァーリョは再度の工業化に乗り出した。まずはイギリスから機械を輸入して[[毛織物]]工場を各地で稼働させ、絹産業も3,000人の労働力を投入して始められた。綿の[[紡績]]、織物の振興も行われたが、これらは競争相手としてイギリスが立ちはだかり、産業が軌道に乗るまでさらに一世紀の経過を待たねばならなかった。
 
== 解任 ==