「池田光政」の版間の差分

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* 光政は家臣が自分を諌める事を推奨した。ある寒い日の夜、蜜柑を食べていた時に侍医の[[塩見玄三]]が「冷たい物はお控えあれ」と忠告したので従った。のちに光政は老女を呼んで「玄三の忠告くらいは自分にもわかっている。だがわかっていると言えば今後、誰も私を諌めなくなるであろう。だから口に出しかかっていた言葉を抑えたのだ」と述べた<ref>谷口澄夫『池田光政』吉川弘文館(人物叢書)1987年。222頁</ref>。他にも家臣の池田出羽などを呼んで自分に悪事があったら遠慮なく諌めるように求めている。
* 光政は生母福正院への孝養が厚く、寛文12年(1672年)に福正院が病気になった時、光政は昼夜服も変えずに側を離れず、食事は自らが試食したものでなければ通すことを許さなかった。また次男の政言(政言から見れば祖母)が不義を働いた時には激怒した<ref group="注釈">「国を領する身に親の奉養かくべきや。ただか様の事にて御歓を受べき事なるに、其心なきは不孝なり」</ref>という。<ref>谷口澄夫『池田光政』吉川弘文館(人物叢書)1987年。216頁</ref>。
* [[大久保忠隣]]の失脚事件に連座して[[安房国]]から改易された[[里見忠義]]は、[[伯耆国|伯耆]][[倉吉藩]]に預けられた。流人とは言え、忠義には40004,000石が与えられていたため、[[大岳院]]に3石1斗8升の寺地寄進をするなどの、それなりの身分を保っていた。しかし、[[元和]]3年([[1617年]])、[[因幡国|因幡]][[鳥取藩]]主であった池田光政により、その4,000石もとりあげられ百人扶持の[[知行]]とされた。なお、[[1622年]]に貧困のうちに亡くなった忠義に家臣8名が[[殉死]]した。彼らの[[戒名]]に共通して「賢」の字が入ることから八賢士と称されるようになり、これが『[[南総里見八犬伝]]』の八犬士のモデルになったという説がある。
 
=== 学問 ===