「ロシア・ツァーリ国」の版間の差分

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=== ロマノフ家の統治 ===
[[ファイル:Tsar boyar duma.jpg|thumb|250px|[[ドゥーマ|貴族会議]]に出席したツァーリ・ミハイル]]
1613年、ゼムスキー・ソボルは大貴族[[ミハイル・ロマノフ]]をツァーリに選出し、300年にわたる[[ロマノフ家]]による統治が始まった。新王朝にとっての喫緊の課題は秩序の回復であった。ロシアにとって幸運なことに、強大な敵国ポーランドとスウェーデンは互いに激しく対立して紛争を続けており、ロシアはこれを好機として1617年にはスウェーデンとの講和に持ち込むことが出来た。1605年から続いた[[ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)|ロシア・ポーランド戦争]]は1618年の[[デウリノ条約]]によって終結し、ポーランド・リトアニア共和国はかつて1509年に[[リトアニア大公国]]が喪失した[[スモレンスク]]を含む地域を一時的に復することが出来た。
 
[[ロマノフ家]]の初期の統治者たちは弱い立場にあった。ミハイルの治世は長い間、1619年から[[モスクワ総主教]]の座についたツァーリの実父[[フィラレート (モスクワ総主教)|フィラレート]]が国政の諸事を取り仕切った。1630年代にロシアを訪れた{{仮リンク|アダム・オレアリウス|en|Adam Olearius}}は、この国に関する豊富な情報を生き生きとした記述で伝え、彼の本は瞬く間にヨーロッパのさまざまな言語に翻訳された。
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東方への領域拡大は比較的大きな抵抗を受けないまま進んだ。1581年、商人[[ストロガノフ家]]は[[毛皮貿易]]に関心を抱き、[[コサック]]の首領[[イェルマーク]]を雇って西[[シベリア]]への遠征を行わせた。イェルマークは[[シビル・ハン国]]を征服し、[[オビ川]]と[[イルティシュ川]]以西をロシア領と宣言した{{要出典|date=2009年5月}}。[[マンガゼヤ]]を始めとする拠点から、商人、交易業者、探検家たちが[[オビ川]]、[[イェニセイ川]]、[[レナ川]]さらに太平洋岸へと東に進んでいった。1648年、探検家の[[セミョン・デジニョフ]]は北極海から[[ベーリング海峡]]に入り、アメリカ大陸とアジア大陸のと間が通航可能だということを発見した。
 
17世紀半ばまでに、ロシア人は[[アムール川]]と[[中華帝国清朝]]{{要曖昧さ回避|date=2014年6月16日}}の辺境地帯に到達した。[[ヴァシーリー・ポヤルコフ]]や[[エロフェイ・ハバロフ]]らによる[[満州]]北部のアムール川流域での[[清朝]]政府との紛争を経て、ロシアは1689年に中国と和平を結んだ。[[ネルチンスク条約]]により、ロシアはアムール川流域に対する要求を取り下げたが、[[バイカル湖]]の東に接する地域および[[北京]]との交易ルートを獲得した。中国との和平は同世紀中葉に実現した太平洋への到達ルート([[オホーツク海]]の拠点[[オホーツク]]、そこからの[[カムチャツカ半島]]への航路)を安定的なものにした。
 
== 初期の帝国 ==