「木村庄之助 (31代)」の版間の差分

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== その他 ==
* [[2004年]]9月場所13日目 横綱朝青龍明徳 - [[関脇]][[若の里忍|若の里]]戦で、若の里が土俵際の[[突き落とし]]で勝ったが、若の里に勝ち名乗りを上げる際、客席から飛んできた[[座布団]]が庄之助に直撃したようで[[烏帽子]]がない状態で若の里に[[懸賞 (相撲)|懸賞金]]を手渡した。かなりの衝撃もあったようで庄之助の足元もふらついていた。
* この[[2004年]]9月場所は 朝青龍が[[稽古]]不足で大不振。9勝6敗の成績に終わる。朝青龍は庄之助に成績および相撲内容の悪さについての謝罪したという。
* 庄三郎時代1場所だけ途中休場している。理由は「前日の取組を裁いていた際に、右足[[ふくらはぎ]]を[[肉離れ]]した」ということ。
* 庄之助時代の思い出の取組として、[[2004年]]7月場所8日目の[[前頭]]2枚目[[琴ノ若晴將|琴ノ若]](現[[佐渡ヶ嶽]]) - 横綱朝青龍戦と、[[2005年]]7月場所8日目の[[小結]][[琴欧洲勝紀|琴欧州]] - 朝青龍戦を挙げている。中でも琴ノ若戦は琴ノ若の「[[つき手]]」か「[[かばい手]]」かで大きく揉めた一番であるが、本人は「かばい手だと判断して自信をもって琴ノ若に軍配を挙げた」と自身の停年会見で語っている。
* 師匠の[[式守伊之助 (19代)|19代式守伊之助]]を大変尊敬しており、伊之助時代は19代伊之助の軍配を使っていた。庄之助を襲名してからも伊之助最後の弟子であることを誇りにしていたという。
* 庄之助を襲名してからは、一人[[横綱]]だった[[朝青龍明徳|朝青龍]]の[[取組]]を常に裁き、朝青龍も彼に対して絶大な信頼感をもっていた。朝青龍が7連覇を決めた[[2005年]]11月場所を最後に停年を迎えたが、[[千秋楽]]の弓取り式を終え引き上げる花道の途中、表彰式準備のため本来なら支度部屋に帰っているはずの朝青龍が花道に戻る庄之助を待っており、花束と懸賞金の一部を餞別として手渡し感謝を告げるという一幕があった。