「木村庄之助 (30代)」の版間の差分

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*入門のきっかけは「父親の命令」だったそうである。彼の父親が[[木村庄之助 (22代)|22代庄之助]]を大変尊敬していたので直接入門を決めてきたという。彼は[[高校]]を[[中退]]し入門を決意することになる。
*彼に師匠が名乗っていた容堂を継ぐ事を打診したのは、兄弟子の25代式守伊之助(後の[[木村庄之助 (28代)|28代木村庄之助]])だった。最初に打診されたのが[[1989年]]3月場所、その時は「まだ早い」として本人が辞退した。同年の九州場所の番付発表の日に再度25代伊之助から打診があり、彼は即答で打診を受けた。容堂襲名を聞いた[[木村庄之助 (22代)|泉の親方]]は、「そうか、ようやくお前も容堂になったか」と大変喜んだそうである。
*庄之助時代は[[横綱]][[貴乃花光司|貴乃花]]が休場中だったこともあり、横綱[[武蔵丸光洋|武蔵丸]](現[[武蔵川]])の取組を多く裁いた。横綱同士での貴乃花 - 武蔵丸戦は伊之助時代3度(2001年5月場所本割、2001年1月場所決定戦と2001年5月場所決定戦)、庄之助時代1度([[2002年]]9月場所本割)裁いている。このほか、貴乃花の現役最後の一番(2003年1月場所 対[[前頭]]4枚目[[安美錦竜児|安美錦]]戦)を裁いたほか、2002年11月場所13日目、大関朝青龍(当時)が初優勝を決めた一番(対[[関脇]][[若の里忍|若の里]])を裁いている。
* この世界に入るまで筆を持ったこともなかったというが、研鑽を重ねて習得した[[根岸流 (書風)|相撲文字]]の上手さは天下一品であり、助手時代を含め計30年にわたり番付書きに携わった。
* 一度、幕下の番付を書いているとき、[[墨]]と筆を番付の上に乗せたままトイレに行ったら、子犬が墨付きの足跡を付けたことがあり、そのときはその部分を[[剃刀]]で削って、下から別に紙を当てたというエピソードがある。