「思想の科学」の版間の差分

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出版社はその後[[建民社]]、[[講談社]]、[[中央公論新社|中央公論社]]と変った。
 
[[1961年]]12月、[[天皇制]]を特集した62年1月号に際して当時の出版社であった中央公論社が、編集を担当していた[[思想の科学研究会]]に無断で雑誌を断裁した。理由として、{{Quotation|内容どうこういうのではなく、時期的にまずいという一語につきる<ref>毎日新聞1961年12月28日付</ref>}}1961年2月1日、「[[風流夢譚]]」に激高した右翼少年が中央公論社長・[[嶋中鵬二]]邸を訪問し、夫人ならびに家政婦を殺傷した([[嶋中事件]])事件の影響であったと言われ、当時の編集部の社員の話によると
 
 
「内容どうこういうのではなく、時期的にまずいという一語につきる」(毎日新聞1961年12月28日付)
 
 
1961年2月1日、「[[風流夢譚]]」に激高した右翼少年が中央公論社長・[[嶋中鵬二]]邸を訪問し、夫人ならびに家政婦を殺傷した([[嶋中事件]])事件の影響であったと言われ、当時の編集部の社員の話によると、
 
「営業部長が手にして、『天皇制特集号』という文字のみに反応し、『新たな刺激を右翼に与えて、新たな事件が起こっちゃ大変だ』という大変意識が働いて、すぐに幹部会になり、幹部会は営業局長、総務局長、編集局長が中心となって『すぐに発行を中止しましょう』という結論が出ちゃった。」廃棄処分は僅か数時間で決まったという。
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また、この号の断裁前に[[公安調査官]]や右翼の[[三浦義一]]に読ませていたことが発覚し、主要メンバーが中央公論社への執筆を拒否することとなった。思想の科学研究会は、天皇制特集号の廃棄に対する対応を協議するため、緊急の評議委員会が開かれ、20人が集まった。その主な内容は「とにかくこれは[[言論の自由]]に対するひとつの危機である。これをちゃんと上手く処理しなければ思想の科学研究会は責任を問われる、思想の自由についての責任を問われる。」またオブザーバーで参加した人の話によると、「鶴見さんが『中央公論社と喧嘩しないで別れたい』と。中央公論の嶋中社長が鶴見さんの小学生の頃の幼馴染みで、中公版の思想の科学はずっと赤字で発行されていたので、中央公論社及び嶋中社長に申し訳がないという気持ちが鶴見さんにはあって、筋から言えば中央公論社にもまずい所が色々あるが、それを言わないで別れたいというのが鶴見さんの意向であり、評議委員会の流れも大体それで纏まっていた。ああ、これは鶴見さんの会なんだな、その時初めて僕はわかった。鶴見さんの意向が強くてそれにみんな沿っていった。」
 
[[思想の科学研究会]]は11時間徹夜で協議した結果、次のような「確認事項」を中央公論社に提出した。{{Quotation|その処置は出版の刊行から見て遺憾な点があった。これまで思想の科学の発行を続けてくれた同社の好意に感謝する。<ref>思想の科学会報 第32号 1962年2月7日付</ref>}}という最小限の義理人情を守った上で筋を通し、それまでの長い友情、協力関係に感謝の意を表した。
 
「その処置は出版の刊行から見て遺憾な点があった。これまで思想の科学の発行を続けてくれた同社の好意に感謝する。」(「思想の科学」会報 第32号 1962年2月7日)
 
という最小限の義理人情を守った上で筋を通し、それまでの長い友情、協力関係に感謝の意を表した。しかし、研究会会員のひとりである[[藤田省三]]はこの対応に対し「私信と社会的ビジネスを混同しているのではないか、問題は天皇制批判の自由という市民的自由の根幹を崩落させたことの社会的責任をはっきりさせることではないか。」([[日本読者新聞]]1962年2月19日付)と批判。これを受け会員40人が参加し、臨時総会を開き、藤田と議論を交わした。その後、新たに中央公論社に声明を出した。
 
「思想・言論の自由は、批判の自由を基礎としている。中央公論社が雑誌『思想の科学』天皇制特集を廃棄したことは、この原則を大きく崩す方向に働いている。」(「思想の科学」会報 第35号 1962年3月15日)
 
しかし、研究会会員のひとりである[[藤田省三]]はこの対応に対し・・・{{Quotation|私信と社会的ビジネスを混同しているのではないか、問題は天皇制批判の自由という市民的自由の根幹を崩落させたことの社会的責任をはっきりさせることではないか。<ref>[[日本読者新聞]]1962年2月19日付</ref>}}これを受け会員40人が参加し、臨時総会を開き、藤田と議論を交わした。その後、新たに中央公論社に声明を出した。{{Quotation|思想・言論の自由は、批判の自由を基礎としている。中央公論社が雑誌『思想の科学』天皇制特集を廃棄したことは、この原則を大きく崩す方向に働いている。<ref>「思想の科学」会報 第35号 1962年3月15日付</ref>}}そのため「思想の科学」も中央公論社から離れ自主刊行されることになり、[[1962年]]3月に有限会社[[思想の科学社]]を創立した。初代の代表取締役に[[哲学者]]の[[久野収]]が就任した。自主刊行第一号は「特集・天皇制」内容は廃棄されたものとほぼ全く同じだった。
 
1996年3月に刊行された5月号をもって通算536号で休刊した。