「上条城 (尾張国)」の版間の差分

 
=== 室町・戦国時代 ===
* [[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]]) [[稲生の戦い]]の際に[[小坂雄吉]]は佐久間氏や[[家臣]]上条城と吉田城と上条城の周辺の守備を任せて雄吉らは[[佐々成政]]らとともに戦場で戦い勝利を治める。
 
* 同年、[[清洲城]]主の[[織田信光]]が家臣の[[坂井大膳]]により殺された際、[[織田信長]]の兵召集に応じた吉田城主の[[小坂正氏|小坂久蔵]]は坂井の軍勢により討死した。世継ぎがいなかったので信長は家臣で久蔵の遠縁である小坂雄吉に跡を継がせ、吉田城と上条城城主になった。信長の命令で上条城にやってきた家臣の[[佐久間氏]]ら約500人と共に上条城に来た。
 
[[ファイル:上条城ー櫓台.JPG|thumb|250px|天守跡「人呼びの丘」]]
* [[永禄]]元年([[1558年]]) [[林盛重]]はここの全てが上条城の領地を信長に献上し帰農。信長の支配下になった。盛重帰農して武士の家系が終わり、林家は代々地元の豪農として活躍した。その後、小坂雄吉を置き、城を規模を大きく拡張するため大改修を行った。この頃の所領は約24000石であった。
 
* [[天正]]12年([[1584年]]) [[小牧・長久手の戦い]]の際に盛重の息子[[林重登]]は[[池田恒興]]からの要請をうけて城跡など旧跡を修理して[[砦]]を造り、道の案内などをした。小坂雄吉は[[伊勢国]][[長島]]に出陣し、小坂雄吉が戻るまで森川権六らが城番をしていた。<ref>参考資料:[[武功夜話]]第12、13巻</ref>[[池田恒興]]が率いる軍が一時的に[[徳川家康]]の本拠の[[三河国]]を攻める際に足がかりとしてこの城に入城し二泊した。池田恒興は、後に[[長久手]]で[[徳川家康]]が率いる軍と衝突して[[森長可]]らとともに戦死している
 
* [[天正]]14年([[1586年]]) [[豊臣秀吉]]は上条城や吉田城、小牧にある諸城を取り壊すことを条件に戦いを終えたため、[[天守]]を始めとした城の建造物は壊されたが林重登が上条城跡に新たに屋敷を構えた。
 
* 小牧・長久手の戦いの後、[[豊臣秀吉]]は自ら兵を卒いて[[龍泉寺 (名古屋市)|竜泉寺]]の帰りに林重登の屋敷に来て少しの期間ここに滞在した。[[慶長]]年間初期([[1596年]]~[[1598年]])に、秀吉がこの時の礼に重登を[[春日井郡]]57ヶ村の[[総代]][[庄屋]]に指名し、林家は重登から[[林金兵衛]]の代まで大庄屋として勤めた。
 
=== 明治・大正時代 ===
 
=== 昭和時代 ===
* [[昭和]]52年([[1977年]])[[5月20日]] [[江戸時代]]に建築された現存建造物であった林氏屋敷の母屋が火事により焼失。
 
=== 現代 ===
* [[本丸]]の跡地は個人宅だったが取り壊されている。現在は[[堀]]や[[土塁]]等の遺構を残しつつ本丸を[[月極駐車場]]として活用しており、石碑の建っている少し高いところから城全体を見渡すことができる。付近には林氏屋敷の母屋が現存している。本丸の脇に林金兵衛の屋敷跡の石碑が2つ建立されている。<ref>かつて上条城跡石碑も存在したが現在は所在不明となっている。</ref>
* [[平成]]18年([[2006年]]) [[春日井市]]が調査した際に一部に水田耕土と思われる層位が発見され、水田を埋め立てて上条城が築かれた可能性があるといわれている。現存する北側の堀や土塁は築城当初とは形が異なっていることが確認されたことから、築城後に改修されたと見られている。なお、城域の全容は確認できてない。
 
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