「尊王論」の版間の差分

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==朱子学との関係==
幕府は朱子学を支配原理として採用し、官学として、[[儒教]]思想を定着させた。しかし、{{要出典範囲|date=2015-1-18|もともと武士の争乱の末に政権を奪取した徳川幕府は「王道」に反する「覇道」にあたるから、朱子学による幕府の正統化の論理は、最初から矛盾をはらんでいた}}。[[山鹿素行]]は、儒学のモデルであり、当時の憧れの対象であった中国[[明]]が滅び、[[清]]に支配されて、もはや規範ではなくなったため、日本こそが儒学の正統だとして、「日本こそ[[中国]]である」と論じた。また、儒教思想の日本への定着はすなわち、[[中華思想]](華夷思想)の日本への定着を意味し、近代の[[皇国史観]]などに影響を与え、日本版中華思想ともいうべきものの下地となった。儒教では、[[放伐|湯武放伐]]を認めるかどうかが難題とされてきたが、徳川幕府は朱子学について[[孟子]]的理解に立ち、湯武放伐、[[易姓革命]]論を認めており、そうすると天皇を将軍が放伐してよいことになるため、[[山崎闇斎]]を始祖とする崎門学派が湯武放伐を否定して、体制思想としての朱子学を反体制思想へと転化させた。そして、従来は同じく中国思想であったものが日本化した[[攘夷論]]とむすびつき、幕府や幕藩体制を批判する先鋭的な[[政治思想]]へと展開していき、この思想が[[明治維新]]の原動力となった。また、「[[昭和維新]]」を標榜する昭和期の右翼や[[二・二六事件]]の反乱軍などにより「尊皇討奸」というスローガンが掲げられている。
 
なお{{要出典範囲|date=2015-1-18|[[幕末]]期における「尊王」の対義語として「佐幕」という言葉が使われることがあるが}}、「佐幕」は必ずしも「尊王」と矛盾するものではなく、{{要出典範囲|date=2015-1-18|「佐幕」の対義語はあくまで「倒幕」である}}。なにより[[孝明天皇]]自身が討幕に強く反対していたこともあり、{{要出典範囲|date=2015-1-18|「尊王敬幕」というスタンスを打ち出した藩もあった}}
 
== 参考文献 ==