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==来歴==
[[東京市]][[滝野川区]]に生まれたが<ref name="軍司28">軍司貞則『ナベプロ帝国の興亡』p.28</ref>、[[福岡県]]生まれとされることもある<ref>「[http://www.we-school.net/wes/fukuoka/index.html “福岡は渡辺プロダクション創業者である渡辺晋誕生の地。また、……”]」 - [[ワタナベエンターテインメント|ワタナベエンターテイメントスクール]]</ref>。渡辺家は[[福岡市]]の出で、[[渡辺通 (福岡市)|渡辺通]]一帯の大地主であった<ref name="軍司28" />。晋は[[日本銀行]]勤務の父親の転勤で東京(第二延山尋常小学校、現・品川区立第二延山小学校)から門司(清美尋常小学校)、松本(源地尋常小学校)、そして東京へと移り住む<ref name="軍司28" />。旧制立正中学校(現・[[立正大学付属立正中学校・高等学校|立正大学付属高等学校]])を経て<ref name="軍司28" />、[[1944年]]、[[早稲田大学]]専門部法律科に入学。同校在学中の[[1951年]]、[[松本英彦]]([[テナーサックス]])、[[中村八大]](ピアノ)、[[南広]](ドラム)らと『[[渡辺晋とシックス・ジョーズ]]』を結成。渡辺自身当初音楽はど素人であったが、[[日本銀行]]に勤務していた実父が[[公職追放]]に遭い学費が払えなくなり、月謝や生活費を稼ぐために大学の先輩の薦めでベースを始める。リーダーとしてベースを担当して人気を集めた。最終的に学費が払えず、単位も取れず、1948年に大学は中退<ref>軍司貞則『ナベプロ帝国の興亡』p.23</ref><ref>『日刊ゲンダイ』1979年5月15日インタビュー。</ref>
 
やがてジャズミュージシャンの収入の不安定さや仕事のきつさ、福利厚生の薄さ等を目の当たりにしたことなどからプロダクション経営を考え始め、[[1955年]]4月、妻・美佐、[[松下治夫]]とともに渡辺プロダクションを設立。当時、芸能人の地方公演はそれぞれの土地の興行師が実権を握り、不明朗なことが少なくなく、それをタレントを抱えた自分のプロダクションの手で行い、利益と権利を確保しようという狙いがあった。それまでは[[レコード]]会社の専属抱えだった[[歌手]]・[[作詞家]]・[[作曲家]]を渡辺プロの傘下に集結させ、芸能界初の月給制を導入。さらにこれまでレコード会社で行われていた原盤制作を系列の[[渡辺音楽出版]]の手で作らせ、プロダクションに莫大な利益をもたらすようにした。こうして巨大化した渡辺プロは'''ナベプロ帝国'''と呼ばれ、渡辺は芸能界のドンとして君臨するようになった。