「エクトル・ベルリオーズ」の版間の差分

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[[1843年]][[5月]]末、パリに戻ったベルリオーズは、『ドイツ・イタリア音楽旅行記』や『近代楽器法と管弦楽法』などの著作を著したり、『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の第2幕の前奏曲として『[[ローマの謝肉祭序曲|ローマの謝肉祭]]』を作曲する。一方で妻スミッソンとの仲違いが決定的となり、別居へと至る。スミッソンはモンマルトルの小さな家で(ひきこもる形で)生活する。ベルリオーズは稼ぐために新聞や雑誌の執筆などに追われ、これまで以上に窮地に瀕していた。
 
[[1844年]]にパリで産業博覧会が開催され、博覧会の終了間際(7月末)に産業館で型破りな演奏会を実施する。[[8月1日]]に産業館で行われた演奏会は、新作『[[フランス讃歌]]』(H.97)を初演したが、480人のオーケストラ団員と500人の合唱団員を統合したもので、演奏時にはベルリオーズを中心に7人ほどの補助指揮者が指揮棒を持って壇上に登ったという。演奏会は大成功を収めたが、出費が影響して経済的には僅かなものでしかもたらすことができなかった。
 
[[1845年]]の[[10月]]から翌年の[[1846年]]の[[4月]]にかけて、2回目の演奏旅行として[[ウィーン]]や[[プラハ]]、[[ブダペスト]]などへ赴き、各地で演奏会を開催して大歓迎を受ける。ブダペストでの演奏会は、『[[ラコッツィ行進曲]]』を管弦楽用に編曲した『ハンガリー行進曲』が演奏された際、聴衆から熱狂的な歓声を送られたといわれる。同じ頃に[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の『[[ファウスト]]』による劇的物語『[[ファウストの劫罰]]』の作曲を着手しており、『ハンガリー行進曲』はこの作品に取り入れている。