「藤原義江」の版間の差分

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義江と藤原歌劇団は、敗戦後半年も経ない[[1946年]](昭和21年)1月には[[帝国劇場]]で『椿姫』舞台公演を再開する。同年秋には[[東京芸術大学|東京音楽学校]]の内紛により教授を辞した[[木下保]](テノール)が歌劇団に参加し、ここまで10年超にわたり全ての演目の主役テノールを藤原義江が務めるという状態からはようやく解放されたが、藤原が出演しないと途端にチケット売行きが落ちるという人気から、義江の過演状態は継続していた。声量・声質の衰えからもその公演過多ぶりは明らかだったという。
 
[[1948年]](昭和23年)4月、「タンホイザー」ほか諸歌劇の上演により[[日本芸術院賞]]を受賞<ref>『朝日新聞』1948年4月29日([[朝日新聞東京本社|東京本社]]発行)朝刊、2頁。</ref>。[[1950年]](昭和25年)には東京・赤坂にオーケストラ付の立稽古も可能な「歌劇研究所」を建設([[三井高公]]の資金援助による)、やがて藤原自身も同所に居住することになる。研究所には一時[[近衛秀麿]]の[[ABC交響楽団]]も練習場を置いていた。
 
[[1952年]](昭和27年)に[[日本放送協会|NHK]]の依頼を受け、外国音楽家招聘のため渡米した藤原は、[[ニューヨーク・シティ・オペラ]]に長らく日本で活動していた旧知の[[ジョゼフ・ローゼンストック]]を訪ねる。藤原は同歌劇場での『[[蝶々夫人]]』の上演レベルのあまりの低さに立腹、日本人役をすべて日本人歌手が歌う公演をしてはどうか、と提案する。歌劇団の20名が参加したこの公演は、[[三宅春恵]]([[ソプラノ]])の蝶々さんを始めとする歌唱陣は一定の評価を得たが、藤原の交渉能力の低さから歌劇団には莫大な資金負担となってしまった(藤原は[[高松宮宣仁親王]]の口利きで[[日本興業銀行]]から100万円(200万円とも)を融通してもらい、後には棒引きしてもらったという)。
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* 第6回(1955年12月31日、産経ホール)『女心の歌』
 
==脚注==
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== 参考文献 ==
* 藤原義江 「藤原義江―流転七十五年オペラと恋の半生」 日本図書センター (ISBN 4-82054-318-0) : 自伝的エッセイ。「流転七十五年」として1974年出版されたものの改題で、付記として年譜あり。