「ナショナル・ギャラリー (ロンドン)」の版間の差分

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=== 第二次世界大戦下 ===
[[File:Anthonis van Dyck 046.jpg|thumb|『チャールズ1世騎馬像』(17世紀前半)<br />[[アンソニー・ヴァン・ダイク]]<br />ナショナル・ギャラリー所蔵の絵画で、もっとも大きな作品の一つ(365cm × 289 cm)]]
ナショナル・ギャラリー所蔵の絵画は[[第二次世界大戦]]勃発の直前に、戦禍を避けるためにウェールズ各地へ分散移動させられた。移動先に選ばれたのはペンリン城 ([[:en:Penrhyn Castle]])、バンガー大学 ([[:en:Bangor University]])、アベリストウィス大学 ([[:en:Aberystwyth University]])などだった<ref>{{Harvnb|Bosman|2008|loc=25}}</ref>。1940年に[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|ナチス・ドイツがフランスに侵攻]]したため、より安全な保管先が必要とされ、絵画をカナダへと移す案が検討された。しかしこの案は首相[[ウィンストン・チャーチル]]によって即時却下され、チャーチルは当時のナショナル・ギャラリー館長[[ケネス・クラーク ([[:en:Kenneth Clark]]) に「洞窟や地下壕にでも隠せ。一枚の絵画もイギリス諸島から出て行くことはありえない」という電報を出している<ref>MacGregor, op. cit., p.43</ref>。チャーチルからの命令を受け、北ウェールズのブラナイ・フェスティニオグ ([[:en:Blaenau Ffestiniog]]) 近郊の採石場が絵画の隠匿場所に選ばれた。この新たに提供された場所で当時絵画管理の職に就いており、後にギャラリー館長に就任するマーチン・ディヴィス ([[:en:Martin Davies (museum director)]]) が、同時に保管されたギャラリーの蔵書を参照しながらコレクションの学術的目録の編纂を始めている。保管場所に選ばれた採石場が、絵画を保存する上で重要な要素となる気温と湿度が一定であったかどうかを長く疑問視する修復技術者もいたが、現在ではそれらの要素を再確認することは不可能である<ref>{{Harvnb|Bosman|2008|loc=79}}</ref>。ナショナル・ギャラリーに最初に空調管理設備が設置されたのは1949年になってからであり、絵画がそれ以前にギャラリー内で何らかの悪影響を受けた可能性もあったためである<ref name="BakerHenry"/>。
 
絵画が全て避難した空っぽのナショナル・ギャラリーでは、一般国民の戦意高揚のためにイギリス人ピアニスト[[マイラ・ヘス]]が毎日演奏会を開いた。この当時ロンドン市内のあらゆるコンサート・ホールが閉鎖されていたためでもあった<ref>{{Harvnb|Bosman|2008|loc=35}}</ref>。[[ポール・ナッシュ]]、[[ヘンリー・ムーア]]、スタンリー・スペンサー ([[:en:Stanley Spencer]]) ら、当時を代表するイギリス人画家たちが戦争画家 ([[:en:War artist]]) に任じられ、彼らの描いた戦争絵画の展示が1940年から開始された。戦争芸術家諮問委員会 (War Artists' Advisory Committee) はギャラリー館長のクラークに、「どんな名目でも構わないから画家たちに戦争絵画を描き続けさせる」ように求めている<ref>{{Harvnb|Bosman|2008|loc=91–3}}</ref>。1941年に一人の画家から、近年ギャラリーの所蔵となったレンブラントの『'''マルガレータ・デ・ヘールの肖像'''』を見たいという要望が出た。この要望から「今月の一枚 (Picture of the Month)」の構想が生まれ、毎月採石場から1点の絵画が運び出され、ナショナル・ギャラリーで大衆に展示されることになった。美術評論家[[ハーバート・リード]]はこの年にナショナル・ギャラリーのことを「爆撃され荒廃した大都市の中心部にある、芸術の最前線基地」と評している<ref>{{Harvnb|Bosman|2008|loc=99}}</ref>。絵画が無事にトラファルガー広場のナショナル・ギャラリーに戻ってきたのは、終戦した1945年のことだった。