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'''日中国交正常化'''(にっちゅうこっこうせいじょうか)とは、[[1972年]]9月に日本国と中華人民共和国とが国交を結んだことでこの時まで第二次大戦後の懸案となっていた外交問題である。[[1972年]][[9月25日]]に、[[田中角栄]]内閣総理大臣が現職の総理大臣として[[中華人民共和国]]の[[北京市|北京]]を初めて訪問して、北京空港で出迎えの[[周恩来]]国務院総理と握手した後、人民大会堂で数回に渡って首脳会談を行い、[[9月29日]]に「[[日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明]]」(日中共同声明)の調印式において、[[田中角栄]]、[[周恩来]]両首相が署名したことにより成立した。なお、日中共同声明に基づき、日本はそれまで国交のあった[[中華民国]]に断交を通告した。
 
== 前史・戦後の日中関係 ==
== 経緯 ==
=== 二つの中国 ===
1945年の第二次大戦の終了で日本軍が降伏して、その後国共内戦が始まり、[[1949年]]10月1日、中華人民共和国が建国された。大陸では中国共産党が勝利して、それまで少なくとも中国を代表していた中華民国政府・中国国民党は台湾を支配するのみとなった。ここに中国を代表すると主張する政府が北京と台北で対峙することになった結果、世界各国は中国を承認するに際して、どちらの政府を中国を代表する政府と見なすかという中国代表権問題に直面することとなった<ref>「日中関係史」41P 国分良成・添谷芳秀・高原明生・川島真[著] 有斐閣 2013年12月発行 </ref>。この時は日本はまだ戦後4年でGHQの統治下に置かれ、外交権の無い時期であった。西側でもイギリスは1950年1月に中華人民共和国を承認(台湾との領事関係は維持)したまま中華人民共和国を承認して、中国代表権問題については最初からアメリカとは違うスタンスを取った。<ref group="注釈">これは当時植民地として租借していた香港が大陸にあり、その維持を優先する立場から、北京に代理大使を置くこととなった。そして後年国連を舞台に展開した中国代表権の争いでは、イギリスは北京を支持する方も台湾を支持する方もどちらの提案も賛成する態度に終始することとなった。</ref>
 
の翌して同じ年1950年に、朝鮮戦争が始まり、1952年4月に日本が戦後の独立を果たした頃には、すでに朝鮮半島では国連軍の主力である米軍と中国の人民解放軍が砲火を交えて東アジアは緊張と混乱の中であった。この東西対立の激しい時代に入って日本はアメリカの保護の下に西側陣営に属し、国内に対立を残しながら台湾の中華民国政府を支持する立場に立ち、北京の中華人民共和国とは国交断絶の状態が結局1972年まで続くことになった。その間は民間での経済交流を促進する動きのみが続いた。
=== 日中民間貿易協定 ===
中華人民共和国が建国されて以降、日本と中華人民共和国との交流は友好関係にあった日本共産党や日本社会党以外は細々とした民間交流に過ぎなかった。
 
[[1950年]]10月1日には日中友好協会が設立されたものの、同年勃発した朝鮮戦争の影響もあって12月6日には対中輸出を全面禁止するなど中華人民共和国を警戒する政策がとられていった。さらに[[1952年]]4月、日中貿易促進会議を設立していた[[高良とみ]]、[[帆足計]]、宮腰喜助の各国会議員が、政府方針に反し[[ソビエト連邦|ソ連]]から直接北京を訪問。6月に第一次日中民間貿易協定に調印し、国内に大きな議論を巻き起こした。この時期は台湾と日華平和条約を結んだ頃でもあった。[[1953年]]7月に朝鮮戦争が休戦に至ると、「日中貿易促進に関する決議」が衆参両院で採択された。そして[[池田正之輔]]を団長とする日中貿易促進議員連盟代表団が訪中、10月に第二次日中民間貿易協定を結び、民間貿易が活発化した。
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[[吉田茂]]首相は、1951年9月のサンフランシスコ講和会議の前は国会答弁でも台北の中華民国政府(国府)を承認するとは明言しなかった<ref>「日中関係史」48P  有斐閣 </ref>。西側でもイギリスが北京を承認しつつ台湾とも関係を保っていることに注目して、国府を承認するにしても上海に貿易事務所を開設することに言及していた<ref>「日中関係史」49P  有斐閣 </ref>。むしろ中国代表権問題が解決するまで承認を先延ばしすることも考えていたが、アメリカのダレス国務省顧問に一蹴されて<ref group="注釈">講和条約の批准が米国議会で難しくなると指摘を受けた。この時は日本はまだ独立しておらず、まだ日本外交の無い時期であった。</ref>、結果として国府承認に踏み切らざるを得なかった。<ref group="注釈">この背景には、アメリカの台湾支持の強い姿勢と同時に、アメリカの後押しで講和条約発効までに日本と国交成立をめざし、合わせて戦争賠償に関する戦後処理を急ぐ国府の狙いがあったと言われている。講和条約発効後の二国間交渉になると台湾の立場が弱くなるとしていたからである。</ref>そして講和条約が発効された4月28日に日華平和条約が締結されて、日本と中華民国との戦争状態は終結した。これが、20年後1972年の日本と中国との国交正常化で最も難しい問題となった。
=== 鳩山内閣と政経分離 ===
吉田茂の首相辞任後に[[鳩山一郎]]が首相に就任して、対共産圏との関係改善を目指して、特に日ソの国交回復に尽力した。そして対中国に関しても政経分離を原則に、外交関係はなくても経済関係の拡大を望んで求め、特に石橋湛山通産相は日中貿易拡大を望んでいた。このような鳩山政権の動きに中国は注目していた。[[1955年]]4月になると、[[バンドン会議]]において[[高碕達之助]]と対談した[[周恩来]]総理は、[[平和共存五原則]]の基礎の上に中華人民共和国が日本との国交正常化推進を希望すると表明した。同年5月には日本国際貿易促進協会、日中貿易促進議員連盟と中華人民共和国日本訪問貿易代表団との間で第三次日中民間貿易協定を結んだ。同年12月に中国政府内に「対日工作委員会」が設けられて郭沫若主任、廖承志副主任で対日政策の策定、執行に関する責任部局が出来た<ref>「日中関係史」60P  有斐閣 </ref>。翌1956年9月には、日本人の戦犯およそ1000人が釈放されて11年ぶりに故国に戻ってきた。
 
こうした動きには中国側に民間交流を積み上げることによって政府レベルの関係強化をめざす狙いがあった<ref group="注釈">このような中国側の政策を「以民促官」政策といい、民間交流によって政府レベルの関係へと昇華させていこうとするものであった。「日中関係史」62P  有斐閣 </ref>。第三次貿易協定の交渉で外交官待遇の通商代表部の設置を求めてきたことで、あくまで政経分離の方針の日本側とのズレが生じていた。しかし日本側はあくまでアメリカが黙認する範囲内での民間交流の拡大であり、鳩山及びその後の石橋政権での対中政策は、東アジアの冷戦の枠組みからはみ出るものではなかった。
=== 岸内閣とアジア外交 ===
[[1957年]]2月に石橋首相の病気辞任の後[[岸信介]]が首相に就任した。彼は冷戦の枠組みの中で日米安保条約の改定でより自主的な外交をめざし、特に東アジアに対しては賠償を含む戦後処理を進めて、アジア諸国との関係改善を計ろうとした。これはアメリカに対して対等の日本の自主性を高める意図があった。そして戦後初めて現職首相が東南アジアを歴訪して、その帰途に台湾に立ち寄り、蒋介石総統と会談して台湾との関係を強化した。岸政権は必ずしも中国との経済関係の進展に消極的であったわけではない<ref>「日中関係史」67P 有斐閣</ref>とされている。そして[[1958年]]3月に第四次日中民間貿易協定が結ばれた。その時の覚書に通商代表部の設置や外交特権を与え、国旗掲揚も認めるなどの内容が盛り込まれていて、このことで日本政府に台湾とアメリカから反発が出て、台湾では予定していた日華通商会談を中止して日本製品の買い付け禁止の処置も出され、岸政権は結局民間サイドでの約束であったので外交特権も国旗掲揚も認めない方針を出し、今度は中国側が態度を硬化。険悪なムードが漂う中で[[1958年]]5月2日に長崎国旗事件が起きた<ref group="注釈">この日、長崎市の浜屋デパートの4階催事場で行われた中国商品展示会でその会場に掲げられた五星紅旗を1人の青年が引き摺り降ろした事件。日本の警察が軽微な事件として犯人をすぐに釈放した。</ref>。これに中国の陳毅外相が日本政府の対応を強く批判して、5月10日に全ての日中経済文化交流を中止すると宣言したのである<ref>「日中関係史」69P 有斐閣</ref>。日中間の貿易が全面中断されて、ここまで積み上げてきた民間交流がここで頓挫していった。
 
そしてこの年の夏に周恩来首相が「政治三原則」(中国人民を敵視しない、2つの中国を作らない、両国の関係正常化を妨害しない)を表明し、日中間はしばらく膠着状態となった。中国は岸首相が台湾の蒋介石の大陸反攻に一定の支持をしたことを重く受け止めていた。それまでの日本側の「政経分離の方針」は中国側の「政経不可分の原則」と相対して国レベルでは断絶であった。1959年に訪中した[[石橋湛山]]前首相と周恩来首相との会談で「政経不可分の原則」の確認がなされた。
しかし民間レベルでの接触は続き、友好関係にある団体や個人との交流は続けられた。これらはその後「友好貿易」として経済取引きが継続して、やがて「覚書による貿易」との2つのルートで日中間の経済関係は60年代も続くのである。
=== 池田内閣と二つの中国政策 ===
1960年の日米安保条約改定の混乱の中で岸首相が辞任して、[[池田勇人]]が首相に就任した。池田首相は日中関係改善論者であり、日中貿易促進を唱えていた<ref>「日中関係史」78P 有斐閣</ref>。しかし困難な問題があった。現実は「二つの中国」があり、けれどもどちらの国も「一つの中国」を唱えており、片方と結ぶことはもう片方と断絶することになる。そして国連での常任理事国である議席の中国代表権をどう解決するかであった。池田首相は国連中心の外交方針で、中国の国家承認と国連における中国代表権問題を密接に関連づけるようになっていた。そして、まず国連での中国代表権問題の進展を図り、連動して中国政府の承認をめざすというものであった。これは中国代表権の範囲を中国本土(大陸)に限定して、台湾の国府の議席を維持したまま中国の国連加盟を推進して最終的には国交樹立を目指すもので、あくまで「二つの中国」が前提であった。かし北京も台北も「一つの中国」を原則としており、多くの国が「二つの中国」という現実への対応に苦慮していた<ref>「日中関係史」79P 有斐閣</ref>。
 
池田首相は当面中華民国を支持しつつも、実際に支配する地域(台湾)にその地位を限定することで国府の国際法的地位を確定し、中華人民共和国の国連加盟が実現しても国府の議席は守られると考えていた。そのためには国府を説得しなければならず、それが可能なのはアメリカのみであると考えて、1961年6月の訪米時に当時のケネディ大統領にこの問題の重要性に言及したが、ケネディの反応は中国の国連加盟に対する国内の抵抗が大きいとするものであった。この問題はこの時で終わってしまった<ref group="注釈">この池田政権の事実上の「二つの中国」政策は、積極的に中国との国交回復を図るというよりも、むしろ国連での中国代表権問題でいずれ国府が議席を失うとの予測から、その国際的地位を守り国連での議席を確保する方策として考えられた側面が大きい。この10年後にニクソンが佐藤首相の頭越しに対中関係の樹立に踏み切り(ニクソンショック)、台湾が国連から追放される事態となった。</ref>。
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そして1964年1月に突然フランスのドゴール大統領が中国との国交正常化に踏み切って世界を驚かせたが、フランスは中国との国交正常化をしても国府が自ら断交措置を取らない限り関係を維持する意向を示していた。この時に国府が「二つの中国」政策を認めるのか、日本も注目して、しかも1月30日の衆議院予算委員会で池田首相は、中国の国連加盟が実現すれば日本も中国政府を承認したいと述べた。しかし、翌月に国府は対仏断交に踏み切り、池田内閣で検討していた「二つの中国」政策は挫折した<ref>「日中関係史」82P 有斐閣</ref>。
=== 友好貿易とLT貿易 ===
1960年夏の池田内閣の誕生と合わせるかのように、中国側から対日貿易に対して積極的なアプローチがなされてきた。そして[[松村謙三]]、[[古井喜実]]、高碕達之助、等の貿易再開への努力ののち、日中貿易促進会の役員と会談した際に周恩来首相から「貿易三原則」(政府間協定の締結、個別的民間契約の実施、個別的配慮物資の斡旋)が提示されて、ここから民間契約で行う友好取引いわゆる「友好貿易」が始まった。これはあくまで民間ベースのものであったが「政治三原則」「貿易三原則」「政経不可分の原則」を遵守することが規定された政治色の強い側面があり、これと日本国内で別に政府保証も絡めた新し反体制色の強方式での貿易を進めるために[[1962年]]10月28日に高碕達之助通産大臣が[[岡崎嘉平太]](全日空社長)などの団体や企業トップとともに訪心的な役割を果た「日中総合貿易に関する覚書」が交わされ、ここに日中間の経済交流が再開された([[LT貿易]]。中国側代表[[廖承志]]、日本側代表高碕達之助の頭文字からそのように呼ばれ
 
そこで、これとは別に政府保証も絡めた新しい方式での貿易を進めるために[[1962年]]10月28日に高碕達之助通産大臣が[[岡崎嘉平太]](全日空社長)などの企業トップとともに訪中し11月9日に「日中総合貿易に関する覚書」が交わされて、政府保障や連絡事務所の設置が認められて半官半民であるが日中間の経済交流が再開された。この貿易を中国側代表[[廖承志]]と日本側代表高碕達之助の頭文字から[[LT貿易]]と呼ばれている。しかし1963年10月7日に日中貿易のため中国油圧式機械代表団の通訳として来日した人物が亡命を求めてソ連大使館に駆け込み、その後台湾へ希望先を変えて、その後もとの中国への帰国を希望する事件が発生した(周鴻慶事件)。政府は結局中国へ強制送還したが、国府が反発して日台関係が戦後最悪といわれるほど悪化し、その打開に吉田元首相が訪台してその後にお互いの了解事項を確認した「吉田書簡」を当時の国府総統府秘書長張群に送り、その中で二つの中国構想に反対して日中貿易に関しては民間貿易に限り中国への経済援助は慎むことなどの内容があって、LT貿易に関しては影響を受けた。しかし池田首相の日中貿易に対する積極的な姿勢は変わらなかった。
 
さらに[[1964年]]4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖承志事務所が日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた(代表者は、松村謙三と廖承志)。同年9月29日、7人の中国人記者が東京に、9人の日本人記者が北京にそれぞれ派遣され、日中両国の常駐記者の交換が始まった([[日中記者交換協定]])。
=== 文化大と覚書貿易 ===
[[1964年]]秋に池田首相が病気のため辞任して[[佐藤栄作]]が首相に就任した。佐藤内閣は歴代最長の7年8ヶ月続くが、その在任期間はベトナム戦争、沖縄返還、日米安保延長があり、そして中国では原爆保有、文化大革命があって国内が混乱し、日中間には大きな溝が生まれて、再び交流に齟齬をきたした。
 
[[1966年]]3月には[[日本共産党]]の[[宮本顕治]]が訪中したが、[[毛沢東]]と路線対立し帰国し、それまで友好的であった両国共産党の関係が悪化した<ref group="注釈">この間の動きは[[日中共産党の関係]]を参照のこと。</ref>。この直後、中国では[[文化大革命]]が始まり、やがて中国共産党を巻き込んで国内が混乱し、中国の外交活動も停滞した。文化大革命当初混乱3年後正確な状況が日本に伝えられず、当時の学生運動の若者からは一部支持されて、好意的な論調を展開するメディアも存在したが、1969年4月の中国共産党九全大会で党の立て直しが図られて以降鎮静化した。しかし政府間の関係は冷え切ったままであった。そのような中でも[[1968年]]3月に古井喜実が訪中し、覚書貿易会談コミュニケを調印。いわゆる覚書貿易<ref group="注釈">これをMT貿易と表記される向きがあるが、MTとはMemorandum Tradeの略称で覚書貿易の英語訳の略称であり、それにわざわざ貿易をつけると重言表現であり、当時は普通に覚書貿易と呼称されていたものである。</ref>が開始された。彼は以後毎年訪中し、その継続に努めた。そして、政治的に激動した1960年代後半は、両国の外交関係は半ば閉じられた状態であった。しかし、貿易面ではLT貿易は浮き沈みがあったが民間の友好貿易は右肩上がりで当初の10倍に達した。
== 経緯 ==
 
=== 米中接近 ===
中華人民共和国が1949年10月に建国されてから、東西冷戦の時代に入ったが、501950イギリスが、601964フランスが承認して国交を樹立していた。折しも1962年頃から中ソ対立が激しくなり、一方で米ソ協調路線となり、フランスの独自外交とアメリカのベトナム戦争への介入、中国の文化大革命など、それまでの東西対立とは違って60年代後半は国際情勢が複雑で多極化していた。1969年春に中ソ間で国境線を巡る武力衝突事件が起きて、中国がソ連を主な敵とする外交路線を取り、また混乱していた国内の文化大革命が落ち着き始めてそれまでの林彪らの文革派から周恩来が実権を回復していた頃から、積極的な外交を展開するようになった。1970年10月にカナダ、12月にイタリアと国交を結び、この頃からアメリカへの働きかけが水面下で始まっていた。
 
[[1971年]]3月に名古屋市で開催された世界卓球選手権に文革後初めて選手団を送り、当時のアメリカ選手団を大会直後に中国に招待するピンポン外交が展開されて後に、7月に[[ヘンリー・キッシンジャー]]米国大統領補佐官(当時。後に国務長官)が北京を秘かに訪問し、中華人民共和国成立後初めて米中政府間協議を極秘に行った。そして[[7月15日]]に、ニクソン大統領が翌年中華人民共和国を訪問することを突然発表して、世界をあっと驚かせた(第1次ニクソン・ショック)。この[[ニクソン大統領の中国訪問]]は翌1972年2月に行われた。
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=== 佐藤内閣 ===
佐藤首相は、池田前首相の立場とは少し違って、政権発足当初は二つの中国を前提とせず、国府の国連での議席を守ることでは前政権と変わらないが、国府を正統政府と見なすという現実的対応を前提にして、将来両国がお互いを承認する方向を模索するものであった<ref>「日中関係史」95~97P 有斐閣</ref>。しかし時代はベトナム戦争の激化と中ソ対立や文化大革命の混乱で、池田内閣の時代と違い、佐藤首相が積極的に日中接近に打って出ることはそもそも不可能であった<ref>「日中関係史」97P 有斐閣</ref>。そして、佐藤内閣の大きな課題は沖縄返還であり、日中関係は停滞していた。そして1970年代に入る頃にこの米中間の対話開始と急速な接近で、当時先進国で中国との国交が正常化していない国は日本と西独だけで他の英仏伊加がすでに承認していたことは、日本外交が取り残されているとの認識が一般にも広がっていった。一方当時の自民党内ではまだ東西冷戦の思考から抜け出せず、また中華民国(台湾)を支持する勢力が多数であり([[石原慎太郎]]や[[浜田幸一]]なども親台湾派であった)、様々な権益が絡んでいた。また当然のことながら、中華人民共和国、中華民国の両政府はともに、他国による中国の[[台湾問題#二重承認問題|二重承認]]を認めないために、佐藤首相の外交は60年代の冷戦思考そのままのものであった。1971年3月に訪中した藤山愛一郎氏は周恩来首相の言葉から米国が先行して米中対話を行うことを危惧する旨を外務省に伝えているし、福田赳夫氏は「中国問題では米国が日本に相談に来ている」と語っていた<ref>「国交正常化交渉~北京の5日間~」1972年北京の5日間交渉内容 105P 鬼頭春樹著</ref>。それが「ある日の朝、目を覚ませばアメリカと中国とが手を握っていた」<ref group="注釈">これは当時まだニクソン訪問が実現する前に、西欧各国が中国を承認する動きが出てきた頃に、いずれアメリカも承認せざるを得ないのではとの声から、日本が世界から取り残されるジョークとして週刊誌などで述べられていた。しかし由来はもっと古く、1957年から1963年まで駐米大使を務めた朝海浩一郎氏が、「日本にとって最大の外交的悪夢は、日本の知らない間に頭越しに米中両国が手を握る状態が訪れることだ。」と語ったことである。ニクソンショックはまさにこのジョークや悪夢が現実に起こったこととなった。</ref>ことで右往左往することになった。
 
71年秋に国連総会で中華人民共和国の加盟を審議した際には、日米とも加盟そのものには反対せず、しかし台湾を排除することは重要事項であるとして前年までの方向と全く違う考え方の「逆重要事項案<ref group="注釈">前年まで中国の加盟は重要事項で三分の二の賛成が必要という案(1960年頃に中国加盟案を審議する際にアメリカが反対するための方策として考えられたものであった)をずっと提出していたが、この年は台湾の追放が重要事項で三分の二が必要という案に変った。</ref>」と中国・台湾両国とも議席を認める「複合二重代表制決議案<ref group="注釈">当初は中国も台湾も議席を認めたうえで、国連安保理の常任理事国をそれまでの台湾を継続させる案であったが、やがて中国支持派の増加で結局中国が安保理の常任理事国になることを認めたうえで、台湾は総会での議席を認める内容に変更した。</ref>」の2つの案を共同提案国として提出したが、まず逆重要事項案が否決<ref>賛成55、反対59、棄権15、欠席2。「ニクソン訪中と冷戦構造」第5章 米中接近と日本 139P 増田弘 編著 慶応義塾大学出版会 2006年6月発行</ref>されて、複合二重代表制決議案は自然消滅となり、中華人民共和国の加盟と中華民国の追放を求めたアルバニア案の採決<ref>賛成76、反対35、棄権17、欠席3。「ニクソン訪中と冷戦構造」第5章 米中接近と日本 139P </ref>で日米とも反対したが結局賛成が大きく上回り、加盟と追放が決定された<ref group="注釈">この時の国連総会の質疑で反対の論陣を張ったアメリカ国連大使がジョージ・ブッシュで、彼は皮肉なことに後に北京の米国連絡事務所(実質的には米国大使館)の所長(実質は全権大使)を務め、その後レーガン政権で副大統領、1989年に第41代大統領となった。</ref>。アメリカは反対を唱えながらもこの時すでにキッシンジャーが訪中して翌年のニクソン訪問の実務的な協議をしており、日本はただ反対するだけで何の対応も出来ない状況に置かれて佐藤外交の無策ぶりが目立った。中国の国連加盟が実現して台湾が国連を脱退した頃に、佐藤内閣でこの年7月まで官房長官を務め、当時自民党幹事長であった[[保利茂]]は東京都の[[美濃部亮吉|美濃部]][[東京都知事|都知事]]が訪中した際に極秘に周恩来首相宛ての親書<ref group="注釈">この親書は後に「保利書簡」と言われている。1971年10月25日付けで1.中国は1つである、2.中華人民共和国が中国を代表する政府である、3.台湾は中国国民の領土であるとして保利氏自身が訪中して両国政府間の話し合いを進めたい旨の内容であった。「政客列伝」~保利茂~ 283~284P 安藤俊裕著 日本経済新聞出版</ref>を託したが、中国側の対応は冷ややかであった<ref group="注釈">これは直後に明らかになり、キッシンジャーならぬミノベンジャーだと言われた。しかしタイミングが国連総会で日本が逆重要事項案に賛成し、中国加盟・台湾追放のアルバニア案に反対していた時であったため、周恩来首相から「まやかしで信用できない」と一蹴されている。</ref><ref group="注釈">この時に結果は不首尾であったが保利氏がそれまでの台湾支持の立場から中国との国交正常化へ立場が変ったことは、自民党内での親台湾派と親中国派との力関係に変化が生じることとなった。「政客列伝」~保利茂~ 283~284P 安藤俊裕著 日本経済新聞出版</ref>。中国側は佐藤内閣には何ら期待しておらず、もはや次の内閣が日中間の正常化をめざすことは誰の目にも明らかになった。