「上条城 (尾張国)」の版間の差分

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|ar_called = 上條城
|struct = 輪郭式平城
|tower_struct =不明 (非現存)
|builders = [[小坂光善]]
|build_y = [[建保]]6年([[1218年]])
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== 概要 ==
市の中南部に位置し、上条城の東部を[[内津川]]、[[庄内川]]が南北に流れている。
[[小坂光善]]が上条城を築城したのが始まりで、光善は築城した後に[[近江国]]へ移り住んでいたが、[[林重之]]の代に上条城に戻り、名字を小坂からと改姓した。林家は林重之が[[上条用水 (東春日井郡)|上条用水]]を切り開くなど、代々地元の農業の振興に努めたといわれる
<ref>参考資料:[http://www.city.kasugai.lg.jp/bunka/bunkazai/kyodoshikasugai/kyodoshi06.html 郷土誌かすがい 第6号]、春日井市図書館「中世の城館 春日井市周辺」</ref>[[豊臣秀吉]]により城が[[廃城]]になった後も林家はこの地で[[林重登]]を初め[[林金兵衛]]まで15代に渡って[[庄屋]]に従事し、[[明治時代]]に至る。
 
天守台の頂上部には今井兼平と磯城津彦命(父:[[安寧天皇]])を奉っていたコンクリート製の祠の土台が残存している。この天守台は[[天守]]が取り壊された後に村人を召集したり、水害や戦の際にここの頂上に登って村人に知らせたことから「人呼びの丘」とも呼ばれている。
 
== 歴史・沿革 ==
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* [[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]]) [[稲生の戦い]]の際に[[小坂雄吉]]は佐久間氏や家臣に上条城と吉田城の周辺の守備を任せて[[佐々成政]]らとともに戦場で戦い勝利を治める。
 
* 同年、[[清洲城]]主の[[織田信光]]が家臣の[[坂井大膳]]により殺された際、[[織田信長]]の兵召集に応じた吉田城主の[[小坂正氏|小坂久蔵]]は坂井の軍勢により討死した。世継ぎがいなかったので信長は家臣で久蔵の遠縁である小坂雄吉に跡を継がせ、吉田城と上条城城主になっを任ぜられた。信長の命令で上条城にやってきた家臣の[[佐久間氏]]ら約500人と共に上条城に来た。
 
[[ファイル:上条城ー櫓台.JPG|thumb|250px|天守跡「人呼びの丘」]]
* [[永禄]]元年([[1558年]]) [[林盛重]]が上条城の領地を信長に献上し帰農。信長は雄吉を置き、城を規模を拡張するため大改修を行った。
 
* [[天正]]12年([[1584年]]) [[小牧・長久手の戦い]]の際に盛重の息子[[林重登]]は[[池田恒興]]からの要請をうけて城跡など旧跡を修理して[[砦]]を造り、道の案内などをした。雄吉は[[伊勢国]][[長島]]に出陣し、小坂雄吉が戻るまで森川権六らが城番をしていた。<ref>参考資料:[[武功夜話]]第12、13巻</ref>[[池田恒興]]率いる軍が一時的に[[徳川家康]]の本拠の[[三河国]]を攻める際に足がかりとしてこの城に入城し二泊した。恒興は、後に[[長久手]]で[[徳川家康]]が率いる軍と衝突して[[森長可]]らとともに戦死している。
 
* [[天正]]14年([[1586年]]) [[豊臣秀吉]]は上条城や吉田城、小牧にある諸城を取り壊すことを条件に戦いを終えたため、[[天守]]を始めとした城の建造物は壊されたが林重登が上条城跡に新たに屋敷を構えた。
 
* 小牧・長久手の戦いの後、[[豊臣秀吉]]は自ら兵を卒いて[[龍泉寺 (名古屋市)|竜泉寺]]の帰に林重登の屋敷に来て少しの期間滞在し、[[慶長]]年間初期([[1596年]]~[[1598年]])秀吉がこの時の礼に重登を[[春日井郡]]57ヶ村の[[総代]][[庄屋]]に指名し、林家は重登から[[林金兵衛]]の代まで大庄屋として勤めた。
 
=== 明治・大正時代 ===
[[ファイル:Zyouzyouzyou castle stele.JPG|thumb|250px|上条城跡の脇にある林家屋敷跡の石碑]]
* [[幕末]]から[[明治]]の期間は初代[[東春日井郡]]長の[[林金兵衛]]の[[屋敷]]が置かれていた。
 
=== 昭和時代 ===
* [[昭和]]52年([[1977年]])[[5月20日]] [[江戸時代]]に建築された現存建造物であった林氏屋敷の母屋が火事により焼失。
 
* [[平成]]18年([[2006年]]) [[春日井市]]が調査した際に一部に水田耕土と思われる層位が発見され、水田を埋め立てて上条城が築かれた可能性があるといわれている。現存する北側の堀や土塁は築城当初とは形が異なっていることが確認されたことから、築城後に改修されたと見られている。なお、城域の全容は確認できてない
=== 現代 ===
 
* [[本丸]]の跡地は個人宅だったが取り壊されている。現在は[[堀]]や[[土塁]]等の遺構を残しつつ本丸を[[月極駐車場]]として活用しており、石碑立されている少し高いところ地点から本丸部全体を見渡すことができる。付近には林氏屋敷の母屋が現存している。本丸の脇に林金兵衛の屋敷跡の石碑が2つ建立されている。<ref>上条城跡石碑も存在したが現在は所在不明。</ref>
* [[平成]]18年([[2006年]]) [[春日井市]]が調査した際に一部に水田耕土と思われる層位が発見され、水田を埋め立てて上条城が築かれた可能性があるといわれている。現存する北側の堀や土塁は築城当初とは形が異なっていることが確認されたことから、築城後に改修されたと見られている。なお、城域の全容は確認できてない。
 
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=== 三の丸(佐久間屋敷) ===
三の丸は上条城の面積の約3分の2を占めており、南東に1ヶ所[[虎口]]が設けられていた。規模は東西約370m、南北約340mで周囲と北西から南東に土塁と堀を廻らせていた。弘治2年(1556年)稲生の戦いの際に佐久間氏三の丸に屋敷を一時的に構えていたことから('''佐久間屋敷''') 呼ばれている。その後、本拠の[[御器所村|御器所]]に戻った
 
== 柴田屋敷 ==
城内に存在したされる[[屋敷]]であり、上条城の復元図を見ると本丸から南東方向に「柴田屋敷」と書かれてある。[[密蔵院 (春日井市)|密蔵院]]の文章の中に「頼郷<ref>上条城の二の丸、三の丸部分にあたる地名。</ref>城主であった柴田康端が息子の柴田亀千代の病気の[[祈り|祈祷]]料として上田五反歩を[[寄進]]した…」との記事があり柴田康端の屋敷と言われているが詳細は不明である。跡地とされている付近は現在、宅地化されている
 
== 現地情報 ==
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* [http://www.city.kasugai.lg.jp/bunka/bunkazai/kyodoshikasugai/kyodoshi06.html 郷土誌かすがい 第6号]
* [http://www.city.kasugai.lg.jp/bunka/bunkazai/kyodoshikasugai/kyodoshi37.html 郷土誌かすがい 第37号]
* [http://www.geocities.jp/chiezoikomai/owari/joujou.html 上条城(じょうじょうじょう) ちえぞー! 城行こまい]
* [http://www42.tok2.com/home/hakubutukan/owari_mikawa/joujou.html 上条城 / 帝国博物学協会]