「ユーリー・ダヴィドヴィチ」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[1228年]]、兄と父が相次いで死亡したためムーロム公位を継いだ。[[1229年]]、[[1232年]]には[[ウラジーミル大公国]]の[[ユーリー2世]]の[[モルドヴィン人|モルドヴァ族]]に対する遠征に参加した。[[1237年]]、[[モンゴル帝国]]軍が[[リャザン公国]]の南の国境地帯に現れたため、[[ムーロム]]、[[リャザン (ルーシ)|リャザン]]の公たちは[[ヴォロネジ川]]へと軍を進めた<ref>[http://www.krotov.info/acts/12/pvl/novg07.htm {{lang|ru|Новгородская первая летопись старшего извода}}]</ref>。ユーリーは同年に、モンゴル帝国軍との戦いで戦死した<ref>Татищев В. Н. Собрание сочинений в восьми томах: Т.2, 3. История Российская. Часть 2: Репринт с изд. 1963, 1964 гг. — М.: Ладомир, 1994. С.332</ref>。なお、これらの一連の戦いをもとに書かれた『バツのリャザン襲撃の物語』{{refnest|group="注"|作品名は中村喜和の訳に拠る。「バツ」はモンゴル帝国軍の総司令官だった[[バトゥ]]を指す。}}では、当時のムーロム公を「[[リャザン公]]の兄弟のダヴィド・イングヴァリヴィチ」と誤って記している<ref>[http://bibliotekar.ru/rus/7.htm {{lang|ru|Повесть о разорении Рязани Батыем}}]</ref><ref>中村喜和『ロシア中世物語集』p227</ref>{{refnest|group="注"|なお、『バツのリャザン襲撃の物語』にはその他いくつかの人名の誤りなどがみられ、作品の成立年代は合戦自体から数十年後であると推測されている<ref>中村喜和『ロシア中世物語集』p391</ref>。}}。
 
妻の名は不明である。子にはムーロム公[[ヤロスラフ・ユーリエヴィチ (ムーロム公)|ヤロスラフ]]がいる。