「チェーザレ・ボルジア」の版間の差分

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| caption = チェーザレ・ボルジアの肖像([[{{仮リンク|アルトベロ・メローネ]]|en|Altobello Melone}}画、[[アッカデミア・カッラーラ]]蔵)
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}}
'''チェーザレ・ボルジア'''({{lang-it|Cesare Borgia}} {{pronounced|ˈtʃɛzare ˈbɔrdʒa}}、{{lang-es|César Borgia}}(セサル・ボルヒア)または{{lang|es|César Borja}}(セサル・ボルハ)、[[バレンシア語]]:{{lang|ca|Cèsar Borja}}、[[1475年]][[9月13日]](14日説有)<!-->([[1476年]]生誕と英語版wikiにあるが文献から確認取れず、コメントアウト)<--> - [[1507年]][[3月12日]])は、[[イタリア]]・[[ルネサンス]]期の軍人・政治家。なお、イタリアにおいては単に「チェーザレ」という名前は一般に[[ガイウス・ユリウス・カエサル]](ガイオ・ジュリオ・チェーザレ)を指すため、現地でチェーザレ・ボルジアは「ヴァレンティーノ公」と呼ばれることが多い<ref>惣領冬実@web Work's Information 2007年12月8日付</ref>。日本では、よく[[織田信長]]と比較される
 
== 生涯 ==
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[[1495年]]1月、シャルル8世とアレクサンデル6世が「バチカンが預かっていた[[オスマン帝国]]の帝位継承者でもあった[[ジェム・スルタン|ジェム]]の身柄をフランスが引き受けること」や「チェーザレをフランス軍の元に置くこと」等の内容の協定を結んだことから、チェーザレはバチカンを退去するフランス軍と共に南下してナポリ王国の占領にも立ち会う格好となったが、同月中にチェーザレはフランス軍の隙を見て、逃亡に成功した。以降、アレクサンデル6世はイタリア諸国と同盟を結んで、フランス軍へ対峙した。この間のチェーザレはローマに滞在したともされるが、その動向は掴み難い。
 
[[1497年]]6月、ボルジア家の旧領であったガンディア公爵として、教皇軍最高司令官でもあったフアン・ボルジアがピアッツァ・デッラ・ジュディッカ(ローマ市内のゲットー)で殺害される事件が起こった<ref>先代のガンディア公爵であったペドロ・ルイスは[[1488年]]に死去</ref>。フアンと激しい敵対関係にあった枢機卿{{仮リンク|アスカーニオ・スフォルツァ ([[:|en:|Ascanio Sforza|en]],}} (イル・モールの弟) や[[グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ]]([[ウルビーノ公国|ウルビーノ公]])らと共に、チェーザレもフアンの殺害犯として噂された<ref>グイチャルディーニ「フィレンツェ史」第15章 P.214、ルクレツィアをフアンと奪い合った為との俗説もあるが、現在に至るまで真相は不明。</ref>。これによってボルジア家の政治や軍事部門を担当する人物が消える事となった。[[フランチェスコ・グイチャルディーニ]]は自著で、アレクサンデル6世がフアンを溺愛したことにチェーザレが嫉妬したのが主たる原因、としている。なお、フアン殺害の同時期にフィレンツェの修道士[[ジロラモ・サヴォナローラ]]の[[破門]]がアレクサンデル6世より公表された<ref>グイチャルディーニ「フィレンツェ史」第15章 P.214</ref>。
 
=== フランス滞在期 ===
[[ファイル:AmboiseLeChateau.JPG|thumb|200px|right|アンボワーズ城]]
[[1498年]]7月、枢機卿会議においてチェーザレは「枢機卿及びバレンシア大司教の地位を返上する」と表明し、会議において全会一致で承認された<ref>グイチャルディーニ「フィレンツェ史」第17章 P.249</ref>。これに先立って、アレクサンデル6世とフランス国王[[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]](チェーザレとも因縁があったシャルル8世は1498年4月に死亡)は、「チェーザレに[[ヴァランス]]等の公爵として領土を与えること」「チェーザレの要望に応じて軍事的な支援を行うこと」「聖ミカエル騎士団([[モン・サン=ミシェル]]で知られる)の騎士の称号を与えること」等の協定を結び、10月に協定履行の為に腹心の{{仮リンク|ミケーレ・ダロット・コレーリア(Michele daッラ|en|Micheletto Corella、ドン・ミケロット)}}らと共にフランスへ渡って、しばらくの間フランス国内に滞在することとなる。
 
10月12日に[[マルセイユ]]到着後は、教皇特使としての業務を終えた後、自らの領土ヴァランスを始め、[[アヴィニョン]]、[[リヨン]]等を訪れた。
 
[[1499年]]5月、ルイ12世の後ろ盾もあって、チェーザレは[[ナバラ王国|ナバーラ王]][[フアン3世 (ナバラ王)|フアン3世]]の妹[[{{仮リンク|シャルロット・ダルブレ]](Charlotte|en|Charlotte of d'Albret, 1480年 - 1514年)}}と結婚し、[[アンボワーズ城]]で挙式を行った<ref>グイチャルディーニ「フィレンツェ史」第17章 P.249</ref>。その後、聖ミカエル騎士団の騎士にも叙され、フランス王家との養子縁組も行って、以降チェーザレは'''チェーザレ・ボルジア・ディ・フランチア'''({{lang|fr|César Borgia de Francia}}, セザール・ボルジア・ド・フランシア)と称することとなった。全ての儀式を終えたチェーザレは、「ヴァランス公爵」(ヴァレンティーノ公爵)としてフランス軍に参加するためにミラノへ向けてフランスを出立した。
 
シャルロットとの生活はチェーザレが7月にフランス国外へ出るまでの2ヶ月に過ぎなかったが、翌年5月17日に娘[[ルイーザ・ボルジア|ルイーザ]]が生まれた。ミラノ公国とフランスの戦いはあっさりと決着がついて、10月にチェーザレはフランス軍と共にミラノへ入城した。
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結局、イーモラでは一部の砦で抵抗があったものの、チェーザレは陥落させて、イーモラを手中に収めた。12月、フォルリへ到着したチェーザレはフォルリ近郊の砦に籠城するカテリーナ軍への攻撃を開始した。カテリーナは激しく抵抗したが、2ヶ月にわたる戦闘の末に最後はチェーザレ軍がカテリーナを捕縛した事で、勝利を収めた。裏切り者による仕業とも示唆されている<ref>グイチャルディーニ「フィレンツェ史」第19章 P.292</ref>。
 
[[1500年]]2月、チェーザレは軍の一部を率いてローマへ入城。同時期に行われた[[謝肉祭]]にて、チェーザレ自身の先の戦功に関連付ける形で、11頭立ての馬車から構成された[[古代ローマ]]の[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]が行った凱旋式と同様の催しを挙行した<ref>ブルクハルト「イタリア・ルネサンスの文化」第5章 祝祭 P.204</ref>。3月、バチカンにてアレクサンデル6世は、イーモラとフォルリの統治権をチェーザレに与えることを公布すると共に、チェーザレを教会軍総司令官に任命した。7月、ルクレティアの夫であった{{仮リンク|アルフォンソ ([[:・ダラゴーナ|label=アルフォンソ|en:|Alfonso of Aragon|en]]) }}が何者かによって襲撃される事件(8月に死去)が発生した。フランスと微妙な関係にあったナポリ王家の一員であったアルフォンソの死によって、最も利益を得る立場にあったチェーザレが真犯人として疑われたものの、真相は闇の中に消える事となった。
 
=== ロマーニャ公爵 ===
1500年8月、チェーザレは内紛状態にあった[[チェゼーナ]]を、軍を動かすことなく手に入れた。更にアレクサンデル6世によりマラテスタ家(Malatesta, [[リミニ]])、マンフレディ家([[ファエンツァ]])、[[スフォルツァ家]]([[ペーザロ]])を破門・宣戦布告したことを受けて、チェーザレはイーモラ攻撃時と同様にフランスの応援部隊及び傭兵から成る12,000の兵を率いて、リミニへ向けて進軍した。10月、リミニを支配していた{{仮リンク|パンドルフォ4世マラテスタ ([[:|en:|Pandolfo IV Malatesta|en]]) }}がチェーザレ到着を前にチェーザレに降伏を申し出て国外へ退去し、チェーザレはリミニへの無血入城を果たした。続いてペーザロへ進軍したが、ペーザロを支配していた{{仮リンク|ジョヴァンニ・スフォルツァ ([[:|en:|Giovanni Sforza|en]]) }}もチェーザレ到着前に遁走しており、やはり無血入城を果たした<ref>グイチャルディーニ「フィレンツェ史」第20章 P.315</ref>。更に[[ファーノ]]へ向かって進軍しこれを降伏させた。
 
11月、{{仮リンク|アストール3世マンフレディ ([[:|en:|Astorre III Manfredi|en]]) }}を当主とする[[ファエンツァ]]に到着したが、ファエンツァはチェーザレの降伏勧告を拒否して抵抗する姿勢を示した。ファエンツァの抵抗は激しく、チェーザレの再三にわたる攻撃を退けたものの、1501年4月にアストールの命を保証することを条件にファエンツァはチェーザレに降伏した。後にアストールはローマへ送られ、1502年1月に[[サンタンジェロ城]]で暗殺された<ref>グイチャルディーニ「フィレンツェ史」第20章 P.315</ref>。ファエンツァ陥落を受けて、アレクサンデルはチェーザレを[[ロマーニャ]]公爵に任じた。
 
=== ウルビーノ等征服 ===
1501年5月、チェーザレはフィレンツェ共和国との国境沿いまで進軍したが、アレクサンデル6世の要請やルイ12世の仲裁もあってフィレンツェ攻略を断念し、資金面での提供を受けること等を条件として和約を結んだが、チェーザレがフィレンツェを去った後を任された[[ヴィテロッツォ・ヴィテッリ]]は、フィレンツェ南方のキアーナ渓谷一帯を略奪すると共に同地区での反乱を煽動した。6月、ルイ12世の要請により、ナポリ王国攻略を目指すフランス軍にチェーザレは協定に基づいて参加した。[[カプア]]の攻撃を任されたチェーザレは、7月に陥落させた。なお、フランス軍は8月までにナポリ全土を征服しており、ナポリ王家([[トラスタマラ家|アラゴン家]])は没落することとなった。
 
1501年9月、ナポリ王家の結びつきを背景としてローマ近郊に勢力を保っていた[[コロンナ家]]やサヴェッリ家が、アラゴン家の没落により影響力を失いつつあったことから、これらを駆逐するべく、チェーザレは[[カステル・ガンドルフォ]]等のコロンナ家の所領を攻撃してこれを征服し、ボルジア家(及び教皇領)の所領に組み入れた。同じく9月、フィレンツェの南にある[[ピオンビーノ]]を攻撃してこれを征服した<ref>グイチャルディーニ「イタリア史」第5巻 第6章 P.63</ref>。12月、[[フェラーラ]]公[[アルフォンソ1世・デステ]]とルクレティアの結婚式が行われ、これによりフェラーラからの脅威が抑えられることとなった<ref>グイチャルディーニ「イタリア史」第5巻 第6章 P.64</ref>。1502年5月にピサ、6月に[[アレッツォ]]を影響下に収めることに成功した。
 
[[1502年]]6月、チェーザレはそれまでの戦争で傭兵としてチェーザレ軍として従軍していた[[ウルビーノ公国]]を電撃的に包囲した。ウルビーノ公グイドバルド・ダ・モンテフェルトロは抵抗することなく[[マントヴァ]]へと落ち延び、チェーザレはウルビーノに入城した<ref>グイチャルディーニ「イタリア史」第5巻 第9章 P.82</ref>。また、ウルビーノ攻略と同時期にフィレンツェ政府の使節として{{仮リンク|フランチェスコ・ソデリーニ ([[:|en:|Francesco Soderini|en]]) }}とマキャヴェッリがチェーザレと会談し、ヴィテロッツォによるキアーナ渓谷一帯での行為について抗議し、チェーザレはヴィテロッツォを呼び戻す代わりにフィレンツェから年間傭兵料を受け取ることで協定を結んだ。
 
ウルビーノ征服の後、[[サンマリノ|サンマリノ共和国]]がチェーザレに降伏した。[[カメリーノ]]のシニョーレであったジュリオ・チェーザレ・ダ・ヴァラーノ (Giulio Cesare da Varano) は抵抗したものの、カメリーノも陥落した。チェーザレはジュリオ及びその3人の息子ヴィンツェンツォ (Vincenzo) 、アンニバーレ (Annibale) 、ピッロ (Pirro) を処刑した。なお、7月から8月にかけて[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]がチェーザレの許を訪れた。
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*パオロ・オルシーニ (Paolo Orsini, [[オルシーニ家]])
*フランチェスコ・オルシーニ (Francesco Orsini, [[グラヴィーナ・イン・プーリア|グラヴィーナ]]公, オルシーニ家)
*[[{{仮リンク|ジャンパオロ・バリオーニ]] ([[:|en:|Gian Paolo Baglioni|en]],}} ([[ペルージャ]]のシニョーレ)
*[[{{仮リンク|オリヴェロット・ダ・フェルモ]] ([[:|it:|Oliverotto da Fermo|it]],}} ([[フェルモ]]のシニョーレ)
の5名が中心であり、いずれもチェーザレ軍に参加していたコンドッティエーレであった。その他、[[シクストゥス4世 (ローマ教皇)|シクストゥス4世]]の時期に枢機卿となった{{仮リンク|ジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニ ([[:|it:|Giovanni Battista Orsini|it]]) }}、シエナの{{仮リンク|パンドルフォ・ペトゥルッチ ([[:|en:|Pandolfo Petrucci|en]])}} 、ボローニャの{{仮リンク|ジョヴァンニ2世ベンティヴォーリョ ([[:|en:|Giovanni II Bentivoglio|en]]) }}、グイドバルド(元ウルビーノ公)、ジャンマリーア(カメリーノ、ヴァラーノ家)らが参加。後に反乱軍が最初に会合を開いた[[マジョーネ]](ペルージャ領内、[[トラジメーノ湖]]畔にある寒村。会合自体は9月に行われた)の名を採って一連の事件を「マジョーネの乱」と称することとなる<ref>グイチャルディーニ「フィレンツェ史」第23章 P.367</ref>。
 
グイチャルディーニは反乱が起こった理由について、「(反乱者は)チェーザレの際限のない支配欲を恐れ、反乱者達の領土が全て教会領に属することから、将来チェーザレから攻撃される可能性を恐れたため」としている<ref>グイチャルディーニ「フィレンツェ史」第23章 P.364</ref>。
 
反乱軍(「マジョーネ連合」)はウルビーノで決起して、旧ウルビーノ公国領土を制圧した。更にベンティヴォーリオ率いるボローニャが反乱に呼応して、チェーザレが滞在するイーモラへ向けて進軍した。反乱軍が制圧したウルビーノでグイドバルドが、カメリーノでジャンマリーノがそれぞれ当主に復帰した。10月17日に[[フォッソンブローネ]]でオルシーニ軍がチェーザレ軍を打ち破り、チェーザレ軍の{{仮リク|ミケロット・コッラ|en|Micheletto Corella}}は敗走、{{仮リンク|ウーゴ・ディ・カルドナ|es|Hugo de Cardona}}は捕虜となった<ref>グイチャルディーニ「イタリア史」第5巻 第11章 P.102</ref>。
 
当初の戦局を優位に進めた反乱軍であったが、反チェーザレを標榜した反乱軍内部の意思疎通は欠けていた。ヴィテロッツォやオルシーニ党がチェーザレ軍に属した時期にフィレンツェを攻撃した件をフランス王から弁明を求められたにも拘らずこれを黙殺したことから、フランスはチェーザレ側へと組した<ref>グイチャルディーニ「フィレンツェ史」第23章 P.365</ref>。また、その他の周辺の諸国(フィレンツェ等)からもチェーザレが暗黙の支持を取り付けたことや軍事面での増強を進めたことに加えて、教皇軍最高司令官としてアレクサンデル6世の威光をバックとしていることもあって、反乱軍の一部は独自でチェーザレとの和睦交渉を行った。まとまった和睦内容を巡って、ヴィテロッツォらとパオロ・オルシーニらが激しく対立し、オルシーニ一族らが個別にチェーザレとの和睦に調印するなど、結束は崩れた。グイドバルドは再びウルビーノから亡命せざるを得なくなり、ジャンマリーノはチェーザレとの交渉によってカメリーノを退去することで合意した。ボローニャはチェーザレと個別に傭兵契約を結んだことで、反乱軍から距離を置いた<ref>グイチャルディーニ「フィレンツェ史」第23章 P.374</ref>。反乱から約1ヵ月後にマキャヴェッリがフィレンツェ政府に対して「チェーザレが勝利するに違いないと考えている」との内容の書簡を送っており<ref>ヴィローリ 『マキャヴェッリの生涯 その微笑の謎』 p.69</ref>、チェーザレ優位に事態は進みつつあった。
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=== シニガッリア事件 ===
1502年12月31日、チェーザレは反乱側の5人のコンドッティエーレから、反乱軍が既に制圧していたシニガッリア(Sinigaglia、現:[[セニガッリア]])で交渉を持ちかけられ、チェーザレおよび病を理由に欠席したバリオーニ以外の4人のコンドッティエーレが、シニガッリアへ軍を率いて集合した。チェーザレは穏和な態度で4人と相対して油断させ、4人が自軍から離れてシニガッリアの城内に入ったところを、ドン・ミケロットらに命じて捕縛させた。これと同時に、4人が率いた軍をチェーザレは攻撃して、これらを壊走させた<ref>グイチャルディーニ「イタリア史」第5巻 第11章 P.108</ref>。
 
尋問の後にヴィテロッツォ及びオリヴェロットはそれぞれ「教皇に自らの罪業の大赦を願いたい」「ヴァレンティーノ公に反逆したのはヴィテロッツォが唆したためである」の言葉を残し、反逆罪によってその場で処刑された。パオロ及びフランチェスコは即時に処刑はされず、ローマでチェーザレの弟ホフレらが指揮を取る教皇軍がジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニやフィレンツェ大司教{{仮リンク|リナルド・オルシーニ ([[:|it:|Rinaldo Orsini (arcivescovo)|it]]) }}らを逮捕すると共にオルシーニ一党を討伐したのを聞いた後、1503年1月18日にカステッロ・デラ・ピエーヴェでパオロらを処刑した。なお、ジョヴァンニ・バッティスタは後に獄死、リナルドは釈放された<ref>マキャヴェッリ 『セニガリア顛末記』</ref>。
 
チェーザレは[[1503年]]1月より、反乱に加担した一味の壊滅を掲げて進軍、ヴィテロッツォの本拠地[[チッタ・ディ・カステッロ]]を陥落させ、チェーザレの誅殺から逃れたバリオーニの本拠地[[ペルージャ]]では反乱の失敗に絶望したバリオーニが逃走して、ペルージャはチェーザレへの降伏を願い出た。更にシエナもチェーザレの圧力に屈して、パンドルフォ・ペトゥルッチはフランスへと落ち延びていった(ペトゥルッチはルイ12世の干渉により1503年3月にシエナの[[シニョリーア]]へ復帰した)<ref>グイチャルディーニ「フィレンツェ史」第24章 P.379</ref>。バリオーニやグイドバルドもフランスへ逃れた。なお、[[フェルモ]]はチェーザレの攻撃に晒されなかった。その後、ローマへ進軍してオルシーニ党の勢力を攻撃したが、フランス寄りのオルシーニ家の処遇を巡ってチェーザレはフランスと対立、その後の暗転へつながることとなった。
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1503年7月、チェーザレは軍を率いてローマへ入ったが、8月にアレクサンデル6世と共に原因不明の重病に陥った。現在では[[マラリア]]に感染したとの説が有力であるが、グイチャルディーニや[[ヤーコプ・ブルクハルト]]は「毒入りワインを飲んだことが原因である」としている<ref>グイチャルディーニ「フィレンツェ史」第24章 P.384他</ref>。8月18日、アレクサンデル6世が死去したものの、チェーザレはいまだ病の床におり、状況の変化への機敏な対応が出来なかった。この機を捉えて、グイドバルドやバリオーニらが元々の領土の当主の座に戻った一方で、イーモラやフォルリはカテリーナ・スフォルツァの帰還を拒んでチェーザレにつくことを示した<ref>グイチャルディーニ「フィレンツェ史」第24章 P.389</ref>。
 
アレクサンデル6世の後継教皇となった[[ピウス3世 (ローマ教皇)|ピウス3世]]は即位後1ヶ月弱で死去、ピウス3世の後継となったのはかつて父と教皇の座を激しく争ったジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ([[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]])であった。その際にチェーザレは「教皇軍最高司令官」及び「ロマーニャ公」の地位の確保をユリウス2世と密約して、教皇就任を後押しした。11月、チェーザレはローマからロマーニャへの帰路についたが、密約を反故にしたユリウス2世の命によってチェーザレは捕縛され、ローマへと移送されることとなった。なお、この時のチェーザレの判断をマキャヴェッリは「誤った選択をし、チェーザレが破滅した最終的な原因となった」と記している<ref>マキャヴェッリ 『君主論』 第7章</ref>。12月、{{仮リク|ミケロット・コレッラ|en|Micheletto Corella}}率いる軍勢がフィレンツェ共和国軍と戦ったものの敗北し、ドン・ミケロットは捕虜となった<ref>1504年、フィレンツェの指導者[[ピエロ・ソデリーニ]] ([[:en:Piero Soderini|en]]) によってドン・ミケロットは同国軍の隊長に招聘されたが、その後逐電した。なお、以降の消息は不明。</ref>
 
=== 最期 ===
[[ファイル:Viana church.jpg|thumb|150px|right|サンタ・マリア教会]]
[[1504年]]2月、いまだ抵抗を続けるチェーザレの旧領のイーモラやチェゼーナの降伏をチェーザレが命じることと引き換えに、チェーザレを釈放することで、ユリウス2世と合意した。4月にチェーザレはナポリへ向かった。ナポリは当時[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]=[[アラゴン連合王国|アラゴン]](スペイン)がフランスに代わって支配していたが、変心したユリウス2世とスペインの間の密約により、チェーザレは再び虜囚の身となった<ref>グイチャルディーニ「イタリア史」第6巻 第10章 P.218</ref>。
 
1504年8月、弟フアンの殺害容疑でチェーザレはスペインへと移送され、当初は[[アルバセーテ]]近郊、その後[[バリャドリッド]]近郊の[[メディーナ・デル・カンポ]]にある[[{{仮リンク|モタ城]]|en|Castle of La Mota}}に収監された。なお、この間にルイ12世はチェーザレに与えたフランス国内の領土を没収した。
 
[[1506年]]10月、チェーザレは収監されていたモタ城を脱出して、スペイン軍の追っ手を避けながら2ヶ月の逃避行の末に、12月3日に義兄フアン3世の統治するナバーラ王国へと逃れることに成功した。1507年3月、ナバーラ王国とスペインとの戦闘でナバーラ軍の一部隊を率いてチェーザレは参戦したものの、この戦いで戦死した<ref>グイチャルディーニ「イタリア史」第7巻 第4章 P.292</ref>。チェーザレの遺体は{{仮リンク|ヴィ (Viana、[[:es:Viana|es]])|Viana}} にある{{仮リンク|サンタ・マリア教会([[:|es:|Iglesia de Santa María (Viana)|es]])}}に埋葬された。
 
なお、娘の[[ルイーザ・ボルジア|ルイーザ]]は[[ブルボン家]]の庶子の家系の1つ{{仮リンク|ブルボン=ビュッセ家 ([[:|en:|Bourbon-Busset|en]]) }}に嫁ぎ、チェーザレの死後もその血脈は保たれることとなった。
 
== エピソード ==
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[[File:Leonardo da vinci, Town plan of Imola.jpg|thumb|ダ・ヴィンチが描いたイーモラ市街の地図]]
*レオナルド・ダ・ヴィンチは長らくにわたってルドヴィーコ・スフォルツァを[[パトロン]]として活動していたものの、イル・モーロが没落した後の1502年8月から8ヶ月ほどの間、'''建築技術監督兼軍事顧問'''としてチェーザレの軍と行動を共にした。レオナルドは[[ウルビーノ]]、[[ペーザロ]]、[[チェゼーナ]]等に滞在した後、チェーザレが本拠地としていた[[イーモラ]]に入って、ロマーニャ公国の防衛体制の施策を練った。チェーザレはレオナルドを「最も親しい友人」として、ロマーニャ公国内の通行許可証を与えている。一方のレオナルドは新兵器のデッサンやイーモラでの研究結果のスケッチ画、チェーザレの肖像らしきデッサン等を残したものの、チェーザレ個人に対する評は残していない<ref>田中英道 『レオナルド・ダ・ヴィンチ―芸術と生涯』</ref>。
*16世紀の詩人[[{{仮リンク|エルコレ・ストロッツィ|ストロッツィ]] ([[:it:en|Ercole Strozzi|it]]) }}はチェーザレに対する追悼の詩を書いている。要約すると「あらゆる希望をボルジア家出身の2人の教皇にかけ、次いでチェーザレは神から約束された人物であったとするが、結局は1503年に破滅に至った」というものである<ref>ブルクハルト「イタリア・ルネサンスの文化」第3章 新ラテン語詩 P.412</ref>。なお、ストロッツィはルクレツィアと親密な関係であったとされるが、チェーザレの死から1年後の[[1508年]]に[[フェラーラ]]で刺殺された。
 
== 評価 ==
[[ニッコロ・マキャヴェッリ|マキャヴェッリ]]はフィレンツェ共和国から派遣され、チェーザレとの交渉の最前線に立ち、チェーザレの行動をつぶさに観察していた。マキャヴェッリは、チェーザレの死後、外国に蹂躙されるイタリアの回復を願い、統治者の理想像をフィレンツェの[[メディチ家]]に献言するため『[[君主論]]』を執筆した。マキャヴェッリは『君主論』の中で、「チェーザレは高邁な精神と広大な目的を抱いて達成するために自らの行動を制御しており、新たに君主になった者は見習うべき」<ref>マキャヴェッリ 『君主論』 第7章</ref>とし、「野蛮な残酷行為や圧政より私達を救済するために神が遣わした人物であるかのように思えた」<ref>マキャヴェッリ 『君主論』 第26章</ref>と記した。
 
{{quotation|
166行目:
上記は、マキャヴェッリによるチェーザレの評であると共に「[[マキャヴェリズム]]」を表す文章となる。チェーザレはマキャヴェリズムを具現化した代表格として位置づけられており、これがチェーザレの印象にもつながっている。
 
[[フランチェスコ・グイチャルディーニ|グイチャルディーニ]]は、チェーザレについて「裏切りと肉欲と途方も無い残忍さを持った人物」とした一方、当時のフィレンツェの国情の混乱振りとの対比で「支配者として有能であり、兵士にも愛されていた人物」と評している<ref>グイチャルディーニ「フィレンツェ史」第21章 P.316</ref>。
 
[[19世紀]]の歴史家[[ヤーコプ・ブルクハルト|ブルクハルト]]は、「ボルジア家秘伝の毒」と呼ばれたカンタレラ等によって自らの地位を脅かすような政敵や教会関係者を次々と粛清してはその財産を没収したこと<ref>ボルジア家と敵対した者による誇張が多分に含まれている可能性も考えられる</ref>や「シニガッリア事件」での対応を挙げて、チェーザレを「大犯罪者」や「陰謀者」<ref>ブルクハルト 『[[イタリア・ルネサンスの文化]]』 第1章「教皇権とそれのさまざまな危険」(P.140-P.146)</ref>、「血に飢えて飽く事を知らず、人を破滅する事に悪魔的な喜びを感じる性質」<ref>ブルクハルト 『[[イタリア・ルネサンスの文化]]』 第6章「道徳性」(P.532)</ref>と評した。
 
== ボルジア家家系図 ==