「SD (ナチス)」の版間の差分
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'''SD'''([[ドイツ語|独]]:'''S'''icherheits'''d'''ienst、英:Security Service)とは、[[ナチス・ドイツ]]の[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊(SS)]]内部におかれた情報部。日本語ではそのままSDと書くことが多いが、「親衛隊保安部」もしくは「親衛隊情報部」と訳す文献も多い。
== 歴史 ==
=== SD本部 ===
SDは、1931年8月に[[親衛隊全国指導者]]の[[ハインリヒ・ヒムラー]]と親衛隊幹部[[ラインハルト・ハイドリヒ]]によって[[ミュンヘン]]の[[ナチス党]]本部「[[褐色の家]]」([[:de:Braunes Haus|Braunes Haus]])内に設置された。[[大英帝国]]秘密情報部「[[イギリス情報局保安部|Secret Service]](通称:MI5)」がモデルであり、当初は「IC部」と名付けられていた。大統領選挙をはさんだ1932年4月に[[ハインリヒ・ブリューニング]]内閣の閣議決定によって[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]大統領が「ナチス党のSAとSSの禁止緊急命令」を公布し<ref>阿部良男著『ヒトラー全記録』(柏書房)194-195ページ</ref>、この際に偽装のため「新聞・情報部(PID)」と改名した。しかし当時から親衛隊内部ではSDと呼ばれていた<ref>森瀬繚、司史生著『図解第三帝国』(新紀元社)16-17ページ</ref>。
当初長官は[[ハインリヒ・ヒムラー]]が兼務していたが、実務は創設当時からラインハルト・ハイドリヒが握っており、1932年7月19日にSDと改称されるとともにハイドリヒが正式にSD長官となった。親衛隊の[[本部]]([[:de:SS-Hauptämter|Hauptamt]])の一つとなり、「SD本部」(SD-Hauptamt)が設置された。
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=== 国家保安本部 ===
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 101I-380-0069-37, Polen, Verhaftung von Juden, SD-Männer.jpg|thumb
さらに1939年9月にはハイドリヒを長官とする[[国家保安本部]](RSHA)が誕生し、[[保安警察|保安警察(ジポ)]](1936年にゲシュタポは[[刑事警察 (ドイツ)|刑事警察(クリポ)]]と統合されてこの組織の一部となっていた。)とSDはともにこの下に組み込まれることとなった。ゲシュタポは国家保安本部第四局(反体制取締)となり、一方SDは外国諜報と国内諜報に分けられ、それぞれ第三局(国内諜報Inland-SD)と第六局(国外諜報Ausland-SD)となった。第三局は[[オットー・オーレンドルフ]]、第六局は[[ヴァルター・シェレンベルク]]によって指揮された。
第三局のSD(国内諜報)は、ドイツ社会の状態を率直に分析し、党指導部に報告することができた。特に[[スターリングラード
一方第六局のSD(国外諜報)は、[[第二次世界大戦]]中、[[ヴィルヘルム・カナリス]]提督の[[国防軍情報部]](アプヴェーア)と敵国への諜報活動の主導権をめぐって激しく争った。しかし最終的に勝利したのはSDであった。1944年2月にカナリスがヒトラーの信任を失い(そもそもカナリス自身が、ヒトラーに面従腹背の態度を取り、またクーデター計画に荷担していた)、解任されたのを機にアブヴェールは国家保安本部第六局の配下に組み入れられたのであった。なお局長のシェレンベルクは戦争後期にヒムラーとともにヒトラーに断らずに独断で和平工作を行おうとしている。
== 組織図 ==
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*[[ジョージ・スティン]]著、[[吉本貴美子]]訳、『武装SS興亡史 <small>ヒトラーのエリート護衛部隊の実像1939-45</small>』[[学習研究社]]、ISBN 4-05-401318-X、2005年
*{{Cite book|author=[[芝健介]]|coauthors = [[井上茂子]]、[[木畑和子]]、[[矢野久]]、[[永岑三千輝]]|year= 1989年|title= 1939―ドイツ第三帝国と第二次世界大戦|publisher =同文舘出版|chapter=国家保安部の成立|isbn= 978-4495853914|ref=harv}}
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