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'''イワン・ミハイロヴィッチ・チスチャコフ'''({{lang-ru|Иван Михайлович Чистяков}}、[[1900年]][[9月14日]] - [[1979年]][[3月7日]])は、[[ソビエト連邦|ソ連]]の軍人。大将。[[ソ連邦英雄]]。オトルブニヴォ村(現カリーニン州カシンスキー地区)出身
 
== 経歴 ==
オトルブニヴォ村(現カリーニン州カシンスキー地区)出身。
 
1918年から[[赤軍]]に入隊し、兵卒として[[ロシア内戦]]に従軍した。内戦終結後、小対象、中隊長、大隊長、狙撃連隊長補佐、狙撃師団参謀部第1班長を歴任した。1920年、機関銃学校を卒業。1926年から共産党員。1927年、「ヴイストレル」課程、1930年、高等アカデミーを卒業。1936年、狙撃連隊長、1937年、狙撃軍団長補佐、1940年、ウラジオストク歩兵学校長、1941年、狙撃軍団長。
 
[[独ソ戦]]時、第64狙撃旅団、第8親衛狙撃師団、第2親衛狙撃軍団を指揮。1942年10月から、第21軍(1943年4月から第6親衛軍)司令官。チスチャコフ指揮下の部隊は、[[モスクワの戦い]]、[[スターリングラード攻防戦|スターリングラードの戦い]]、[[クルスクの戦い]]、白ロシア、シャウリャイ、リガ、メーメル作戦、クールランド軍集団の撃滅に参加した。
 
ドイツ降伏後の1945年、極東において[[第1極東戦線 (ソ連軍)|第1極東戦線]]配下の第25軍を指揮し、[[ソ連対日参戦]]に参加。当初は満州と朝鮮の交通を断ち、日本軍の退路を封じる予定であったが、戦況の変化により朝鮮半島に進撃した。9月初めには38度線に到達し、戦後はそのまま北朝鮮地区の占領行政を担った。1947年3月5日に占領軍司令官を辞任。