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天宝10載([[751年]])、[[ズィヤード・イブン=サーリフ]]の率いる[[アッバース朝]]軍と[[高仙芝]]率いる唐軍が、[[天山山脈]]の西北麓のタラス河畔で衝突した([[タラス河畔の戦い]])。この時、葛邏禄(カルルク)がアッバース軍に寝返ったために唐軍は壊滅し、大敗を喫した。
 
[[至徳 (唐)|至徳]]([[756年]] - [[758年]])の後、葛邏禄は強盛となって回紇と双璧をなし、十姓可汗(オンオク・カガン:西突厥可汗)の故地([[イリ地方]])に移って碎葉([[スイア]]),怛邏斯(タラス)の諸城を占拠した。これ以降、葛邏禄(カルルク)は唐に入朝しなくなった。
 
[[大暦]]年間([[766年]] – [[779年]])の後、西突厥を受け継いだ黄姓と黒姓の突騎施(テュルギシュ)二姓は次第に衰退していったため、多くは葛邏禄や[[回鶻]](ウイグル)に附き、一部は[[チュイ川]]上流に逃れた。
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[[西突厥]]に属していた頃のカルルクは、「[[北庭都護府]](現在の[[昌吉回族自治州]][[ジムサル県]])の西北、金山([[アルタイ山脈]])の西に在り、僕固振水をまたがって多怛嶺を包み、車鼻部と接した」とあるように[[ジュンガル盆地]]の北西部に住んでおり、その後アルタイ山脈の西麓に残る者もあれば、[[モンゴル高原]]に移住させられた者もあった。
 
[[766年]]以降のカルルクは、[[北宋]]期の史書『[[新唐書]]』に「十姓可汗の故地に移った」とあり、[[:en:Farighunid]]朝(現在の北アフガニスタン)の地理書『{{仮リンク|ハッダード・アッ=アーラム|en|Hudud al-'alam}}』({{lang-fa-short|حدود العالم}})では、[[チュイ川]](スイアーブ川)や[[タラス川]]の一帯から[[シル・ダリヤ]]上流域の北岸を中心に東イリ盆地・[[イシク・クル]]地方・[[フェルガーナ]]から[[カシュガル]]までを領していたとある。
 
==脚注==