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'''Ju 290''' は、ドイツの[[ユンカース]]社で製作され、[[第二次世界大戦]]中[[ドイツ]]空軍で使用された4発の[[輸送機]]/[[哨戒機]]である。大戦前に民間旅客機として開発された[[Ju 90 (航空機)|Ju 90]]を大幅に改良した機体が原型で当初は洋上哨戒機として開発されたが、大型輸送機を要望する空軍の意向により輸送任務で使用されることになった。その後[[Fw 200 (航空機)|Fw 200]]の後継機として本機が選ばれ偵察・爆撃型の生産が始まったが、戦局の悪化による資材不足や工場の被爆により少数機しか完成しなかった。本機をベースにした高高度偵察・爆撃機も試作されたが、戦局の悪化により開発中止となった。
 
== 設計と開発 ==
[[Image:Ju290-3s.jpg|thumb|200px|right|''トラポクラッペ'' ランプを開いたユンカース Ju 290]]
ユンカース Ju 290は、軍事目的用に評価された[[Ju 90 (航空機)|Ju 90]] [[旅客機]]から直接派生した航空機であり、[[1942年]]の時点で[[ヨーロッパ]]周辺の「限られた海域」上空で[[イギリス空軍|RAF]]に遭遇した場合にその低速と脆弱性を露呈するようになっていた[[Fw 200 (航空機)|Fw 200]] ''コンドル''を代替することを目的としていた。また、大型の[[輸送機]]の要求を満たす機体とも意図されていた。[[爆撃機]]型の'''A-8'''が計画されたが、製造はされなかった<ref name=sweeting123>Sweeting, p. 123</ref>。
 
開発作業はJu 290V1試作機(製造番号:290000001、''Stammkennzeichen'' of BD+TX)として完成し、[[1942年]][[7月16日]]に初飛行を行った。この機体は延長された胴体、より強力なエンジンと[[油圧]]作動の「トラポクラッペ」(Trapoklappe)後部ローディング・ランプを備えていた。V1号機と最初の8機の量産型A-1は無武装の輸送機で、大型輸送機が切望されていたためA-1は完成し次第就役していった。
 
[[1943年]]初めには[[スターリングラード攻防|スターリングラードへの空輸]]に参加した1機と[[チュニジア]]の[[ドイツ国防軍]]への物資の空輸に従事していた2機を含む数機が失われ、本機の武装化が優先課題とされた。
 
Ju 290は長距離洋上哨戒任務に早急に必要とされ、これも優先事項とされてJu 290A-2が製作された。3機のA-1が生産ライン上でA-2仕様に改装されたが、必要な改修箇所や強力な防御武装を施す作業により作業の進捗は遅かった。A-2は、FuG 200 「ホーヘントヴァイル」(Hohentwiel)低[[UHF]]バンドの捜索[[レーダー]]と20 mm [[MG 151 機関砲]]を装備した背面[[砲塔|銃塔]]を備えていた。「ホーヘントヴァイル」レーダーは、高度499 m (1,640 ft)で80 km (50 mi)、999 m (3,280 ft)で100 km (62 mi)までの距離の連合国船団の位置を把握するのに有効であった。これにより、あらゆる[[対空砲]]火の射程範囲外から十分な間合いをとって船団を追尾することが可能であった。
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すぐ後にA-3が追加の航法装置と、20 mm MG 151 機関砲を装備した油圧作動式のHDL 151銃塔を背面に2基、機首下面のゴンドラに20 mm MG 151 機関砲と13 mm [[MG 131 機関銃]]、機尾にうつ伏せになった銃手が操作する20 mm MG 151 機関砲、更に胴体側面(''Fensterlafetten'')に2丁の13 mm MG 131 機関銃といった恐らく[[第2次世界大戦]]中の機体で最も強力な防御武装を施されて続いた。A-2と同様にA-3も同体内に大容量の補助燃料タンクを備えていた。両型共に必要な場合に輸送機として使用できるように機体後部のローディングランプは残されていた。
 
改良型のA-7が[[1944年]]春に現れ、13機が完成しそのうち10機がFAGr 5(第5長距離偵察飛行隊)に配備された。何機かのA-7とA-4には前方からの攻撃に備えて機首に20 mm MG 151 機関砲を装備した取り外し式の銃塔が取り付けられた。A-5とA-7は[[対艦ミサイル]]の母機とすることが意図されていたので爆弾は搭載しなかった。
 
実戦用の機体の生産ラインが[[プラハ]]の[[:en:Letov Kbely|レトフ]]航空機工場に設置された。哨戒任務用に捜索レーダーを装備した'''Ju 290 A-2'''から生産が開始され、本命の'''A-5'''に先立って武装が異なる小改良型の'''A-3'''と'''A-4'''が生産された。'''A-6'''は50名を搭乗させることのできる輸送機であった。
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== 運用の歴史 ==
[[File:Bundesarchiv_Bild_146-1989-039-19A,_Flugzeug_Junkers_Ju_290_A3.jpg|thumb|200px|right|ユンカース Ju 290 A-3]]
特殊長距離偵察飛行隊のFAGr 5 (''Fernaufklärungsgruppe'' 5)が[[1943年]][[7月1日]]に編成され、[[1943年]]晩夏には3機の新造のJu 290 A-2が第1飛行中隊に配備された。この部隊は、その年の[[10月15日]]から[[ボルドー]]近郊の[[モン=ド=マルサン]]で実働状態に入った。彼らの最初の作戦任務は[[1943年]][[11月]]に行われ、[[Uボート]]と協力して連合国の輸送船団を追尾して、時には最長18時間も滞空した。
 
続いて、より強力な[[BMW 801|BMW 801D]]エンジンを装備したJu 290 A-3が5機、20 mm MG 151/20 機関砲を装備した改良型の背面銃塔を取り付けたJu 290 A-4が同じく5機製造された。Ju 290は哨戒任務にはうってつけの機体であり、Fw 200 ''コンドル''と入れ替わり始めた。製造番号:0165のA-4には[[フリッツX|FX 1400]]、[[Hs 293 (ミサイル)|ヘンシェル Hs 293]]と[[:en:Henschel Hs 294|Hs 294]]ミサイル用の懸架装置とFuG 203eレーダーが実験的に取り付けられた。この機体は戦後に[[アメリカ軍|米軍]]に投降し、自力で[[大西洋]]を横断して[[アメリカ合衆国|米国]]まで飛行した<ref name=sweeting123/>。
 
[[1943年]][[11月]]に2番目の飛行中隊が実働状態に入り、6,100 km (3,790 mi) 以上の航続距離を持つJu 290は大西洋の遥か遠くまで進出してUボートへ連合国輸送船団の探知情報を中継した。増加の防御装甲、胴体側面に初期の機関銃の代わりに20 mm MG 151/20 機関砲と[[自動防漏式燃料タンク]]を装備した11機の'''Ju 290 A-5'''と同様に3基のHs 293 [[:en:Glide bomb|滑空爆弾]]かフリッツX対艦ミサイル用の懸架装置と20 mm 機関砲とFuG 200レーダー用アンテナを組み込んだ再設計された機首を装備したA-7が約12機が[[1944年]]の初めにFAGr 5へ配備された。
 
[[1943年]]の末に向けて[[カール・デーニッツ|デーニッツ提督]]は、Uボートの作戦活動に振り向けられるJu 290の戦力全てを要求したが、この目的にはたった20機しか割り当てられなかった。ヒトラーとデーニッツの両人が戦力の増強を要求したが、「ドイツ空軍」[[参謀本部]]はこれ以上を[[ドイツ海軍|海軍]]の偵察任務に割り当てることはできないと宣言した。参謀本部は、これ以上「ドイツ空軍」が「全般的な装備での優先度」を認められないところまで割り当て分は増加していると抗議した。
 
[[1944年]]春に[[アルベルト・シュペーア]]が航空戦力の生産管理を引き継ぐと、洋上哨戒の緊急の必然性が存在するにも関わらずドイツ空軍最高司令部はJu 290を生産停止にする予定であると表明した。この生産停止の代わりにそれらの資源は[[戦闘機]]の生産に振り向けられることを意味していた。その時点でシュペーアの立場は弱く[[ヘルマン・ゲーリング]]はシュペーアの力を奪い取るための協力者を探そうとしており、「ドイツ空軍」が海軍に提供できるものとして「好意」以上のものは用意されていなかった<ref>{{cite book | last = Deist | first = Wilhelm | authorlink = | coauthors = Maier, Schreiber, et al. | title = Germany and the second World War | publisher = Oxford University Press | date = | location = | pages = 657 | url = | doi = | id = | isbn = 0198208731}}</ref>。
 
[[1944年]][[8月]]にドイツ軍がフランスの基地を失うと[[大西洋の戦い (第二次世界大戦)|大西洋の戦い]]は決定的に連合国側に有利となり、洋上哨戒部隊のFAGr 5は東部へ移動した。残存のJu 290は輸送任務に振り向けられるか、敵の前線背後に工作員を降下させたりその他特殊任務で使用する[[第200爆撃航空団 (ドイツ空軍)|第200爆撃航空団]](KG 200)へ移管された<ref>Sweeting, p. 124</ref>。
 
「ルフトハンザ航空機長のSluzalek」が操縦する「[[ルフトハンザドイツ航空]]」のJu 290 A-5(製造番号:0178、登録記号:D-AITR)''バイエルン号''が[[1945年]][[4月5日]]に[[バルセロナ]]に飛来した。この機は着陸時に[[降着装置]]を破損し、''ルフトハンザ''のFw 200が運んできた補修部品で修理された。[[スペイン]]政府が''ルフトハンザ''の定期空路であるK22空路を[[4月21日]]以降は閉鎖したためこの機体はスペインに留め置かれ、スペイン当局へ引き渡された<ref name="Sweeting, p. 116">Sweeting, p. 116</ref>。
 
=== 日本への飛行 ===
[[1941年]][[6月]]の[[バルバロッサ作戦|ソ連侵攻]]後、超長距離飛行用に改造した「ルフトハンザ航空」の機体を使用したドイツと[[大日本帝国|日本]]を結ぶ連絡飛行が計画された。「ルフトハンザ航空」の極東への商業飛行は既に不可能となっており、船舶や[[Uボート]]を使用しての海路での航行は非常に危険な状況になっていた。[[エアハルト・ミルヒ]]元帥は、この直通飛行の可能性評価の研究を承認した。ドイツ占領下のロシア、[[ブルガリア]]といった出発地点が考慮されたが、最終的に[[北極海]]を渡る[[大圏コース]]を辿り、[[シベリア]]東部を横切り、[[満州]]で燃料補給をしてから日本へ至る飛行の出発地点には[[フィンランド]]北部の[[イナリ湖]]近郊のNautsiが選ばれた。
 
[[1943年]]にこの飛行用にJu 290が選定され、[[1944年]][[2月]]に45[[トン]]の燃料と貨物を搭載したJu 290 A-5(製造番号:0170、登録記号:KR+LA)によるテストが開始された。[[1943年]][[3月]]に3機のJu 290 A-9(製造番号:0182、0183、0185)がユンカースの工場で長距離飛行用に改装された。最終的にこの計画は、シベリア領空を飛行することで[[ソビエト連邦]]を刺激したくない日本側が飛行コースに同意しなかったために無期延期となり、この3機はKG200に配備された。[[1944年]]中に0182はロシアでの戦闘で失われ、0183は[[トラフェミュンデ]]で破壊され、0185はロシアでの任務後に修理不能となった<ref name="Sweeting and Boyne, p. 125">Sweeting and Boyne, p. 125</ref>。
 
日本への飛行計画は[[1944年]]12月に復活し、その主要な任務は[[東京]]のドイツ空軍[[駐在武官]]の交代のためにウルリッヒ・ケスラー(Ulrich Kessler)将軍を運ぶことであった。Ju 290 A-3(製造番号:0163)が必要な改修のためにトラフェミュンデに運ばれたが、作業が遅れたことでケスラーは潜水艦[[U234 (潜水艦)|U-234]]に乗って日本へ向かうことが決まった。この機体は[[1945年]][[3月]]に英国軍が到着したときに破壊された<ref name="Sweeting and Boyne, p. 125"/>。
 
== 派生型 ==
=== ヒトラー専用機 ===
[[1943年]][[11月26日]]に製造番号:0170のJu 290 A-5がその他多くの新型機や試作機と共に[[東プロイセン]]の[[チェルニャホフスク|インステルブルク]]で[[アドルフ・ヒトラー]]に披露された。ヒトラーはこの機の能力に感銘を受け、[[ヘルマン・ゲーリング|ゲーリング]]に自身の専用機にJu 290を所望した<ref>Sweeting, p. 87</ref>。しかし、''総統飛行中隊(Fliegerstaffel des Fuehrers、FdF)''には、[[1944年]]遅くになって元は洋上哨戒部隊FAGr 5の所属機だった製造番号:0192のA-7がようやく割り当てられた。[[1945年]][[2月]]にFdFの拠点があった[[バイエルン州|バイエルン]]の[[:en:Pocking|ペッキング]]で改装作業が完了し、登録記号:KR+LWが与えられた。ヒトラー専属パイロットの[[ヨハン・バウア|ハンス・バウア]]がテスト飛行を行ったが、ヒトラーがこの機に乗ることは無かった<ref>Sweeting and Boyne, p. 85</ref>。
 
この機体の客室前部には12 mmの[[装甲]]と50 mm厚の[[防弾ガラス]]に守られたヒトラー用の特別な個室が設けられていた。床には緊急脱出用のハッチが設けられ、ヒトラーの座席には[[パラシュート]]が組み込まれており、緊急の際はヒトラーがパラシュートを着けてからレバーを引くとハッチが開き、そこから脱出するように考えられていた。この機構は等身大の[[マネキン]]を使用してテストされた。
 
ハンス・バウアは[[1945年]][[3月24日]]にこの機体で[[:en:Munich-Riem Airport|ミュンヘン=リーム飛行場]]へ飛んだが、着陸すると直ぐに空襲警報が鳴り響いた。[[ハンガー (航空)|ハンガー]]の中に駐機するとバウアーは自宅へ帰った。飛行場に戻ってくるとバウアーはハンガーと機体の両方が米軍の爆撃機の攻撃により破壊されたことを知った<ref>Sweeting and Boyne, p. 87</ref>。
 
=== アメリカ爆撃機 ===
{{main|アメリカ爆撃機計画}}
長大な航続距離を有するJu 290は''[[アメリカ爆撃機計画]]''には格好の候補機であり、更に航続距離を増した試作機が[[Ju 390 (航空機)|Ju 390]]として発注された。ドイツが内陸部に押し込まれ海洋へ進出する足掛かりを失ったため、[[1944年]]10月に全ての製造作業は中止された。
 
== 戦後 ==
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数機のJu 290が戦争を生き延び、最終的に連合国は少なくとも3機の評価を行った。
 
*[[フリッツX|FX 1400]]、[[Hs 293 (ミサイル)|ヘンシェル Hs 293]]と[[:en:Henschel Hs 294|Hs 294]]ミサイル用の懸架装置とFuG 203eレーダーを装備した製造番号:0165のJu 290 A-4が米軍に投降し、''Alles Kaputt''と改名され登録記号:FE 3400を与えられハロルド・E・ワトソン(Harold E. Watson)大佐の操縦で[[パリ]]の[[オルリー空港]]から[[アゾレス諸島]]を経由して[[1945年]][[7月28日]]に[[ライト・パターソン空軍基地|ライト・フィールド]]に到着した。再度ドイツ空軍の標識をつけられたこの鹵獲機は[[:en:Freeman Municipal Airport|フリーマン・フィールド]]やライト・フィールドで催された航空ショーで度々展示された。[[1946年]]にライト・フィールドでこの機体がスクラップにされたときに主翼内の燃料タンクの近くでドイツ製の[[プラスチック爆薬]]が発見された<ref>{{cite book | last = Samuel | first = Wolfgang W.E. | authorlink = | coauthors = | title = American Raiders: The Race to Capture the Luftwaffe's Secrets | publisher = University Press of Mississippi | year = 2004 | location = | pages = 317–322 | url = | doi = | id = | isbn = 1578066492}}</ref>。
 
*バルセロナで抑留されたA-5(製造番号:0178)「ルフトハンザ航空」の「バイエルン」はスペインにより押収され、最終的には[[1950年]][[4月29日]]から[[1956年]][[7月26日]]まで[[スペイン空軍]]で[[サラマンカ]]にある上級飛行学校に於いて人員輸送用の政府所有輸送機として使用された。この機体は事故を起こした後、部品不足により[[1957年]][[5月]]に廃棄処分にされた<ref name="Sweeting, p. 116"/>。
 
*高高度試作機'''Ju 290 B-1'''用に用意された部品を使用して[[1946年]]にチェコスロバキアのレトフ航空機工場で最後のJu 290が製造された。この機体は40から48名乗り(ソースにより様々)の輸送機として完成し、レトフ L-290 「オレル」("''Orel''"、鷲)と命名された。L-290 は[[旅客機]]として提案されたが、適切な内装装備を備えていなかったことと十分な数のBMWエンジンが入手できなかったために採用されなかった<ref>{{cite book | last = Kay | first = Antony L. | authorlink = | coauthors = Paul Couper | title = Junkers Aircraft And Engines, 1913-1945 | publisher = Putnam Aeronautical Books | year = 2004 | location = | pages = 202 | url = | doi = | id = | isbn = 0851779859}}</ref>。
 
== 運用 ==
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== 出典 ==
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=== 脚注 ===
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