「フランス第三共和政」の版間の差分

「フランス大統領選挙 (1887年)」を加筆。lk
(アルメニア人虐殺を加筆。lk)
(「フランス大統領選挙 (1887年)」を加筆。lk)
しかし、フランス国内では、左派は軍事費の増大とそれに伴う国民への負担増、右派は対ドイツ消極外交と関連づけて、こうした植民地拡大政策を批判した。国内の軍部、取り分け[[フランス陸軍]]は国内保守派([[王党派]]や[[ボナパルティスト|ボナパルト派]]など)の牙城であり、政治に対する介入を仄めかすこともあったが、[[1885年]]の{{仮リンク|フランス議会選挙 (1885年)|fr|Élections législatives françaises de 1885|en|French legislative election, 1885|label=議会選挙}}でジュール・フェリー率いる[[穏健共和党 (フランス)|共和派オポチュニスト党]]([[:fr:Modérés|Républicains modérés]]、opportunistes)が勝利した。[[1886年]]に急進派の援助で[[シャルル・ド・フレシネ|フレシネ]]内閣が発足すると、[[ジョルジュ・ブーランジェ]]が国防大臣のポストを得た。彼は軍属でありながら軍部の改革や{{仮リンク|ドゥカズビル|fr|Decazeville|en|Decazeville}}炭鉱での争議に対して軍の派遣を拒否するなどして民衆や共和派の政治家からも支持されていた。
 
[[1887年]][[4月20日]]、独仏国境でフランスの一警察官がスパイ容疑で逮捕される{{仮リンク|シュネブレ事件|fr|Affaire Schnaebelé}}が起きた。ブーランジェは対独強硬論を主張し、普仏戦争以降の排外的国民的感情を刺激し、ビスマルクをして独仏の友好にとって最大の危険人物と言わしめ、「復讐将軍」の渾名を持つようになった。[[1887年]]5月に政権交代した{{仮リンク|モーリス・ルーヴィエ|fr|Maurice Rouvier|en|Maurice Rouvier}}内閣は、ブーランジェの人気を恐れ更迭、さらに[[軍籍]]を剥奪したが、[[12月2日]]に[[レジオンドヌール勲章]]{{仮リンク|勲章収賄事件|fr|Scandale des décorations|label=収賄事件}}が発覚して[[ジュール・グレヴィ|グレヴィ]]大統領が辞任し、[[12月3日]]の{{仮リンク|フランス大統領選挙 (1887年)|fr|Élection présidentielle française de 1887|label=大統領選挙}}では[[マリー・フランソワ・サディ・カルノー|サディ・カルノー]]が対立候補の[[ジュール・フェリー]]を敗り、新大統領に就任した。[[12月10日]]に[[ブーランジスム]]運動の活動家Aubertinによる[[ジュール・フェリー]]暗殺未遂事件が起こった。[[12月12日]]にルーヴィエ首相も辞任を余儀なくされた。かえってブーランジェに対する人気は高まり、期待感は大きくなっていった。
 
[[1888年]]7月に改憲反対派の{{仮リンク|シャルル・フロケ|fr|Charles Floquet|en|Charles Floquet|label=フロケ}}[[フランスの首相|首相]]と口論の末[[決闘]]となった。ブーランジェは決闘には負けたものの、[[ブーランジスム]]と呼ばれる[[民衆]]の支持はかえって盛り上がり圧倒的支持を受けた。共和勢力の衰退を見た反共和主義勢力の王党派や[[ボナパルティズム|ボナパルティスト]]は、ブーランジェとの協力関係を結んだ。[[1889年]][[1月27日]]の[[補欠選挙]]で勝利すると、クーデターを画策したが、肝心のブーランジェ本人が実行をためらったため計画は瓦解し、フランス共和制は危機を脱した。[[2月22日]]にフロケ首相が総辞職し、次の首相に就任した{{仮リンク|ピエール・ティラール|fr|Pierre Tirard|en|Pierre Tirard}}によってブーランジェに逮捕状が発せられ、関係する組織は起訴されることとなった。身の危険を感じたブーランジェは、4月に[[ベルギー]]へ亡命した。[[1889年]]9月の{{仮リンク|フランス議会選挙 (1889年)|fr|Élections législatives françaises de 1889|en|French legislative election, 1889|label=議会選挙}}が実施され、その後はブーランジスム勢力は急激に衰えていった。
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