「フェルディナンド・カルロ・ゴンザーガ=ネヴェルス」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Tahuantinsuyo (会話 | 投稿記録)
lk
3行目:
 
== 生涯 ==
マントヴァ公[[カルロ2世・ゴンザーガ=ネヴェルス|カルロ2世]]とその妻で前方オーストリア大公[[レオポルト5世 (オーストリア大公)|レオポルト5世]]の娘である[[イザベッラ・クララ・ダウストリア|イザベラ・クララ]]の間の一人息子として生まれた。[[1671年]]、同族の[[グアスタッラ]]公[[フェランテ3世・ゴンザーガ|フェランテ3世]]の娘アンナ・イザベッラ(1655年 - 1703年)と結婚した。この結婚は[[{{仮リンク|マントヴァ継承戦争]]|it|Guerra di successione di Mantova e del Monferrato|en|War of the Mantuan Succession}}以来、長く敵対関係にあったゴンザーガ家内のヌヴェール系とグアスタッラ系の2系統を和解させるためのもので、フェルディナンド・カルロの叔母である神聖ローマ皇后[[エレオノーラ・マグダレナ・ゴンザーガ|エレオノーラ]]の仲介で実現した。
 
フェルディナンド・カルロは[[1678年]]の義父の死後、自らが相続する予定だったグアスタッラ公爵領が[[ハプスブルク君主国|ハプスブルク帝国]]に占拠されたことに不満を持ち、[[フランス王国|フランス]]王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]に接近した。1678年12月にはフランスに領地の一部[[カザーレ・モンフェッラート|カザーレ]]を売却している。さらに1681年にはフランスと協定を結び、6000[[リラ]]の年金と将軍の地位を与えられる代わりに、フランスによるイタリア遠征が開始された場合はこれに協力すると約束した。[[1681年]][[9月29日]]にフランス軍がカザーレに進駐すると、イタリア諸国のフェルディナンド・カルロに対する信望は地に落ちた。