「ヴェネツィア共和国の歴史」の版間の差分
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[[アントニオ・フォスカーリニ]]はヴェネツィア議会の議員であると同時に駐[[イングランド王国|イングランド]]大使であったが、大使在任中の内通、ならびに帰国後にイスパニア王国のスパイとして働いた容疑で告発された。前者については無罪となったが、後者について有罪となり、1622年に[[ピアッツェッタ]]の絞首台に吊るされた。しかし、数ヶ月後に十人委員会は、彼は無実であり、陰謀の犠牲者であったことに気が付いた。彼の名誉は回復された。この事件はヨーロッパ中に知れ渡ることとなった。
[[1628年]]から始まる
[[1638年]]、ヴェネツィア海軍がクレタを巡回している間に、[[アルジェ]]や[[チュニス]]を拠点とする[[バルバリア海賊]]が16隻のガレー船でアドリア海に侵入した。海軍が戻った頃には、海賊は[[ヴロラ|ヴァローナ]]に拠点を再構築していた。ヴェネツィアの司令官[[マリノ・カッペロ]]は海賊を攻撃し、拠点を砲撃し、敵船を捕獲した。これにより3600人の奴隷が解放された。これに対しオスマン帝国は駐コンスタンティノポリスのヴェネツィア大使[[アルヴィーゼ・コンターリニ]]を投獄した。この時は外交努力により戦争は回避された。
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