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Tahuantinsuyo (会話 | 投稿記録)
「ポール・ドゥメール暗殺事件」と「アレクサンダル1世とルイ・バルトゥー暗殺事件」を加筆。lk
Tahuantinsuyo (会話 | 投稿記録)
「民族と国家の保護のための大統領令」と「ドイツ民族への裏切りと反逆的策動に対する大統領令」を加筆。lk
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{{See also|ブロック経済}}
 
[[1932年]][[3月13日]]に[[1932年ドイツ大統領選挙|ドイツ大統領選挙]]で[[パウル・フォン・ヒンデンブルク|ヒンデンブルク]]が大統領に就任。[[5月6日]]、{{仮リンク|ポール・ドゥメール|fr|Paul Doumer|en|Paul Doumer}}[[フランスの大統領|大統領]]([[急進党]])が[[白系ロシア人|白系ロシア]]移民{{仮リンク|パヴェル・ゴルギュロフ|fr|Paul Gorguloff|ru|Горгулов, Павел Тимофеевич|en|Paul Gorguloff}}に銃撃され、翌日死亡した({{仮リンク|ポール・ドゥメール暗殺事件|fr|Assassinat de Paul Doumer}})。[[7月20日]]に[[フランツ・フォン・パーペン]]首相が[[プロイセン州]]の命令違反を理由に{{仮リンク|プロイセン・クーデタ|de|Preußenschlag|en|Preußenschlag}}({{lang|de|Preußenschlag}})を起こし、プロイセン州政府内の「ヴァイマル共和国派」「反ナチ派」「左翼」を根こそぎ一掃した。また、このような[[連立政権]]下における[[ヴァイマル共和政|ワイマール共和国]]への幻滅から、[[7月31日]]の[[1932年7月ドイツ国会選挙|国会選挙]]で[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]が第一党を獲得する。[[11月6日]]の[[1932年11月ドイツ国会選挙|国会選挙]]後も、ナチ党はシャハト首相を認めず、[[1月23日]]には国防相[[クルト・フォン・シュライヒャー|シュライヒャー]]が国会を停止して軍部独裁政治へ移行する案が出されたが、ヒンデンブルク大統領が反対。シャハトのヒンデンブルク大統領に対する推薦などもあり、[[1933年]][[1月30日]]に[[ヒトラー内閣]]が成立。[[2月20日]]の{{仮リンク|1933年2月20日の秘密会談|de|Geheimtreffen vom 20. Februar 1933|label=秘密会談}}で、ヒトラーは[[クルップ]]社の会長[[グスタフ・クルップ]]らからなる[[ルール財閥]]から総額300万[[ライヒスマルク]]の協力を取付けた。[[2月27日]]の[[ドイツ国会議事堂放火事件]]を経て理由に翌[[2月28日]]にヒトラーは閣議で「{{仮リンク|民族と国家の保護のための大統領令|de|Verordnung des Reichspräsidenten zum Schutz von Volk und Staat}}」{{sfn|南利明|1992|pp=266-268}}と「{{仮リンク|ドイツ民族への裏切りと反逆的策動に対する大統領令|de|Verordnung des Reichspräsidenten gegen Verrat am Deutschen Volke und hochverräterische Umtriebe}}」の二つの緊急大統領令制定を提案し、ヒンデンブルクが承認。[[ドイツ共産党]]員・[[ドイツ社会民主党]]員が3000人以上逮捕・拘束された。[[3月5日]]の[[1933年3月ドイツ国会選挙|最後の国会選挙]]、[[3月9日]]の共産党が非合法化により、ナチ党が単独過半数。[[3月23日]]の[[全権委任法]]では、[[ドイツ国家人民党]]などの連立与党の協力で必要とされる国会の2/3の議席を満たし、ヒトラー政権が全権を掌握した(→[[ナチ党の権力掌握]])。[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]は、戦争賠償金の支払いを一方的に拒否し(→[[第一次世界大戦の賠償#賠償金支払いの停止|賠償金支払いの停止]])、有名な全国での[[アウトバーン]]建設などとは別に、外国製品の輸入禁止や、ルール工業地帯への国家投資も盛んに行った。

[[1934年]][[6月30日]]に「[[長いナイフの夜]]」事件で、[[エルンスト・レーム|レーム]]、[[グレゴール・シュトラッサー|シュトラッサー]]、[[クルト・フォン・シュライヒャー|シュライヒャー]]らが暗殺される。[[10月9日]]に[[ユーゴスラビア王国|ユーゴスラビア国王]][[アレクサンダル1世 (ユーゴスラビア王)|アレクサンダル1世]]とフランス[[外務大臣 (フランス)|外相]]{{仮リンク|ルイ・バルトゥー|fr|Louis Barthou|en|Louis Barthou}}が、[[内部マケドニア革命組織]]の{{仮リンク|ヴラド・チェルノゼムスキ|en|Vlado Chernozemski}}によって[[マルセイユ]]で暗殺された<ref name="shiba1998">{{Cite book
|author=[[柴宜弘]]
|date=1998年10月