「ナチス・ドイツの経済」の版間の差分

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1942年5月までに420万人の外国人が投入されたが、それを含めても非国防軍労働力は10%減少している<ref name="kudo198068"/>。これら労働者は人種によって格付けされ、西欧人(フランス、オランダ、ベルギー)・東欧人([[枢軸国]]国民<ref group="注釈">ただし、イタリア休戦後のイタリア人はソ連人とほぼ同じ扱いを受けた</ref>)はドイツ人とほぼ同じ待遇を受けたものの、チェコスロバキア人やポーランド人やソ連人(ロシア、ウクライナなど)は冷遇された<ref>[[#高橋(2005)|高橋(2005:28)]]</ref>。
 
労働者の中でもロシア人に対する待遇は悪く、1941年11月には彼らの「自給」が要求された。この際に食糧次官[[ヘルベルト・バッケ]]はわらくずや木の葉を混ぜたパンのみを支給することを提案している。この提案自体は通らなかったものの、食糧事情は劣悪であり、1942年4月2日の{{仮リンク|フリードリヒ・クルップAG|de|Friedrich Krupp AG|label=フリードリヒ・クルップ社}}の報告では12%のロシア人捕虜が死亡、生存している捕虜も30%以上は労働不能状態である上に、移送されてきたロシア人労働者にはすでに[[飢餓浮腫]]が見られたという<ref>[[#中村(2002)|中村(2002:6)]]</ref>。さらに過酷な条件の労働者としてはユダヤ人がいたが、彼らに関しては[[労働を通じた絶滅]]が行われた([[ホロコースト]])。
 
1942年5月にはシュペーアの主導で<ref>[[#中村(1999)|中村(1999:162)]]</ref>[[フリッツ・ザウケル]]が労働力配置総監に任じられ、労働力調整の全責任者となった。ザウケルはソ連領を含む[[東部占領地域]]([[:en:Reichskommissariat Ostland|en]])から150万人のソ連人男女をドイツに連行するなど、徴用による労働力確保をさらに推し進めた<ref>[[#中村(2002)|中村(2002:1-2)]]</ref>。このため強制労働者数はさらに増加し、1944年5月には750万人と、国防軍を除くドイツ総労働力数の五分の一を占めるまでになった<ref>[[#工藤(1980)|工藤(1980:76)]]</ref>。また、強制労働者の待遇改善も行われたが、党や政府関係者による横流しが頻発したため、根本的な解決にはならなかった<ref>[[#中村(2002)|中村(2002:7)]]</ref>。一方で1942年には女子労働力の徴用が開始されたが、前線兵士への悪影響が考慮され<ref name="nakamura1999163"/>、1944年の時点でもほとんど伸びなかった<ref name="kudo198077"/>。
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