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(「フリードリヒ・クルップ社」を加筆。lk)
当時[[オランダ]]に留学中の[[榎本武揚]]や[[赤松則良]]らはアルフレート・クルップを訪れ社長と会見している。同時に当時建造中の[[軍艦]][[開陽丸]]に搭載する大砲を注文し、最終的に18門が搭載された。[[日本]]でもクルップの火砲を元に多数の火砲が製造され、[[日露戦争]]の時には多数のクルップ式火砲を装備していた。日本語名として「克式」と呼ばれた。
 
[[1903年]]に{{仮リンク|フリードリヒ・クルップAG|de|Friedrich Krupp AG|label=フリードリヒ・クルップ社}}({{lang-de|Friedrich Krupp AG}})を設立。
 
== 2つの世界大戦 ==
[[Image:Krupp Factory WWI.jpg|thumb|160px|right|第一次世界大戦中のクルップ兵器工場]]
[[image:TigerITankTunis.jpg|thumb|160px|right|ティーガー(タイガー)重戦車]]
 
== 2つの世界大戦 ==
=== 第一次世界大戦 ===
*クルップはドイツ陸軍向けに、[[1914年]]に[[ディッケ・ベルタ|420mm砲]]を、また[[1917年]]~[[1918年]]には[[パリ砲]]を製作している。
*クルップはドイツ軍向けに、[[戦車]]・[[砲]]・[[軍用トラック]]などの兵器を製造し続けた。[[連合軍]]からの占領を避けるため、ドイツ国内に工場を移転しながら終戦まで製造を続けた。[[1936年]]からの[[中独合作]]における三年計画では、[[シーメンス]]などともに[[中国]]に兵器工場を建設し、[[中国国民党]]へ兵器を販売していた。
 
=== 第二次世界大戦後 ===
*第二次世界大戦後、[[グスタフ・クルップ]]前会長は[[ニュルンベルク裁判]]の被告人として起訴されたが、高齢のグスタフは公判に耐え切れないものとして起訴を取り下げられた。その後、[[ニュルンベルク継続裁判|継続裁判]]の一つである[[クルップ裁判]]においてグスタフの息子[[アルフリート・クルップ]]会長をはじめとするクルップ社幹部が裁かれた。
*[[上智大学]]内にはクルップ社からの寄付で建てたクルップ・ホールがある。
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