「藤村式建築」の版間の差分

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1873年(明治6年)山梨県に権令(後の県令)として赴任した藤村は、隣県の静岡県に続き断髪を強制する布告を発した<ref name="kindaikentiku" />。断髪によって浮いた髪結の費用を積み立て学校建築に当てるための布告で、断髪しない者からは特別税を取り立てた<ref name="kindaikentiku" />。こうして集めた費用で静岡県より先に1874年には県内最初の学校である琢美学校と梁木学校が完成する<ref name="kindaikentiku" />。これは全国的にもきわめて早く、これより早いのは京都の柳池学校、山口県の岩国学校、横浜の高島学校くらいしかない<ref name="kindaikentiku" />。以後、睦沢学校、舂米学校といった学校や、県庁舎、師範学校、郡役所、警察署、病院、裁判所、郵便局が建てられ<ref name="kindaikentiku" />、同時に勧業製糸場の創設や織物の振興、道路開削、博覧会、共進会の実施、日野原開拓など一連の[[殖産興業]]政策が実施された<ref>『山梨県史 通史編5 近現代1』、pp.34 - 71、pp.111 - 112</ref>。
 
山梨県におけるこうした政策の背景として、1872年に起きた江戸時代以来の金納税制である大小切税法廃止とそれに対する大規模な一揆の[[大小切騒動]]がある<ref name="basho">{{Cite book|和書|title=日本の美術|volume=No.446|author=清水重敦|date=2003-07-15|publisher=至文堂|pages=63-69|chapter=擬洋風建築の建つ場所|isbn=4784334467}}</ref>。藤村の諸政策に対しては反対勢力が台頭し、山梨県における[[自由民権運動]]は反藤村の政治運動として展開した<ref>『山梨県史 通史編5 近現代1』、pp.130 - 136</ref>が、これに対し徹底した洋風化によって不満分子を押さえ込む狙いがあったとみられている<ref name="basho" />。(一揆鎮圧の政治的手腕を買われ[[山形県]]に赴任した[[三島通庸]]も、殖産興業を推し進め洋風化した官庁舎を建設している<ref name="basho" />。)こうした理由から、最初期の建物(特に大工・小宮山弥太郎の手による物)は洋風化が著しい<ref name="basho" />。しかし、洋風建築は和風建築に比べ工事費が高くつき耐候性も欠如していたことから、1876年に藤村は方針を転換し小学校建築において洋風化を推進しなくなった<ref>{{Cite book|和書|title=日本の美術|volume=No.446|author=清水重敦|date=2003-07-15|publisher=至文堂|pages=70-75|chapter=擬洋風デザインの終焉|isbn=4784334467}}</ref>。1877年前後から、小学校建築を中心に屋根に[[鯱]]をのせるなど和風の要素が目立つようになる<ref name="basho" />。
 
1887年(明治20年)藤村が愛媛県に転任したことで藤村式の歴史は終わる<ref name="kindaikentiku" />。しかし、藤村は小宮山を愛媛に呼んで松山に師範学校を建てさせており、小宮山も静岡県に招かれ静岡裁判所を手がけていることから、藤村式はこの2県に飛び火したことになる<ref name="kindaikentiku" />。