「フリードリヒ・エーベルト」の版間の差分

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=== 初代大統領 ===
なおも革命の高揚はおさまらず、首都ベルリンでも急進的な労働者・兵士レーテ(評議会)による動きがあったが、エーベルトは前線から復員した兵士による[[ドイツ義勇軍|義勇軍]]でこれを抑え込もうとした。同年のクリスマス、エーベルトは宮殿を占拠するレーテの水兵を武力鎮圧することに決めた。この決定に反対したハーゼらUSPDの委員は臨時政府から離脱した。続いて翌1919年1月にスパルタクス団員による暴動が発生すると、エーベルトは軍隊・義勇軍でこれを鎮圧した。一連の暴動による死者はドイツ全国で数千人に上るといわれる。同月制憲会議のための総選挙が行われ、SPDは第一党となった。2月6日から[[ヴァイマル]]で国民会議が開催されて[[ヴァイマル憲法]]が制定され、[[ヴァイマル共和政]]樹立が定まる。[[2月11日]]の{{仮リンク|1919年ドイツ大統領選挙|de|Reichspräsidentenwahl 1919|en|German presidential election, 1919|label=大統領選挙}}で、エーベルトは[[ドイツ国]]の初代大統領に選ばれた。
 
1919年6月、一方的な[[パリ講和会議]]で[[ヴェルサイユ条約]]が締結され、連合国はドイツに対し膨大な賠償金支払など屈辱的な条件を押し付けた。これに反発して[[1920年]]には右翼による[[カップ一揆]]が発生、労働者は[[ゼネラル・ストライキ]]でこれに対抗して政府を守った。しかし、ストライキが終わった後、エーベルトの政府は再びドイツ西部での残りの暴動を押さえるために義勇軍や兵士を増強した。その後も困難は続き、[[1923年]]9月にはドイツの賠償金支払いの遅れに苛立った[[フランス]]が[[ルール占領]]を強行。その結果ハイパー[[インフレーション]]が頂点に達し、危機を乗りきるために[[グスタフ・シュトレーゼマン]]を首班とする[[大連立]]内閣が発足するが、のちにSPDは連立政権からの離脱を決定。エーベルトはかつて党首を務めた自らの党を叱責した。
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