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=== 戦間期 ===
 
 
{{See also|アルザス=ロレーヌ共和国|:en:November 1918 in Alsace-Lorraine|:fr:Novembre 1918 en Alsace-Lorraine}}
 
長期化した第一次世界大戦は、[[1918年]][[11月3日]]に[[ドイツ革命|革命]]を招いて帝政は崩壊、ドイツは敗戦国となった。大幅に領土を削られ、巨額の[[戦争賠償金]]の支払いを義務付けられ、[[鉄鉱石]]産出地の[[アルザス]]・[[ロレーヌ]]地方も失ったが、戦争そのものはドイツ国境外で行われたため、ルール地方の産業基盤は無傷だった。しかし、革命の余波はルール地方も吹き荒れ、ルール地方の中心都市エッセンでも、労働者や兵士がストライキを行い、石炭生産をコントロールしようとした。
 
[[1月19日]]に{{仮リンク|1919年ドイツ国民議会選挙|de|Wahl zur Deutschen Nationalversammlung|en|German federal election, 1919|label=国民議会選挙}}が行われ、[[2月11日]]の{{仮リンク|1919年ドイツ大統領選挙|de|Reichspräsidentenwahl 1919|en|German presidential election, 1919|label=大統領選挙}}でエーベルトが臨時大統領に選出され、8月11日に[[ヴァイマル憲法]]が公布された。[[ヴァイマル共和政]]成立後も情勢は安定せず、1920年には左派労働者による大規模な反乱が発生している([[ルール蜂起]])。
 
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 102-12733, Hjalmar Schacht.jpg|thumb|160px|left|[[ドイツ帝国銀行|ライヒスバンク]]の[[ヒャルマル・シャハト|シャハト]]総裁]]
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-1988-0113-500, Franz v. Papen.jpg|thumb|160px|right|{{仮リンク|プロイセン・クーデタ|de|Preußenschlag|en|Preußenschlag}}を起こした[[フランツ・フォン・パーペン|フォン・パーペン]]首相]]
{{See also|アルザス=ロレーヌ共和国|:en:November 1918 in Alsace-Lorraine|:fr:Novembre 1918 en Alsace-Lorraine}}
 
長期化した第一次世界大戦は[[ドイツ革命|革命]]を招いて帝政は崩壊、ドイツは敗戦国となった。大幅に領土を削られ、巨額の[[戦争賠償金]]の支払いを義務付けられ、[[鉄鉱石]]産出地の[[アルザス]]・[[ロレーヌ]]地方も失ったが、戦争そのものはドイツ国境外で行われたため、ルール地方の産業基盤は無傷だった。しかし、革命の余波はルール地方も吹き荒れ、ルール地方の中心都市エッセンでも、労働者や兵士がストライキを行い、石炭生産をコントロールしようとした。[[ヴァイマル共和政]]成立後も情勢は安定せず、1920年には左派労働者による大規模な反乱が発生している([[ルール蜂起]])。ヴァイマル共和国の重大な問題が[[第一次世界大戦の賠償|第一次世界大戦の賠償金]]の支払い、多額の賠償金支払いを迫るフランスは、石炭や鉄による現物支払いを求め、1923年にルール地方を占領した([[ルール占領]])、ドイツは工場に全面停止を呼びかけ[[ストライキ]]で抵抗した。その結果ドイツ経済は破綻状態になり、[[ドイツ帝国銀行|ライヒスバンク]]が[[パピエルマルク]]を大増刷したことにより、[[1922年]]から[[1923年]]にかけて[[インフレーション#ドイツのインフレーション|ハイパーインフレーション]]に陥った。[[1923年]][[12月22日]]に[[ヒャルマル・シャハト]]がライヒスバンク総裁に就任し、ようやく1924年になり通貨は安定し、[[国際連盟]]への加入も認められ、[[1924年]]4月の[[ドーズ案]]により戦争賠償金も軽減され、主に米国向けの輸出と米国からの投資を中心に経済も安定期に入った。ルール地方も徐々に活況を呈していく。[[1925年]][[2月25日]]に[[フリードリヒ・エーベルト|エーベルト]]が急死し、[[3月29日]]と[[4月26日]]に[[1925年ドイツ大統領選挙|ドイツ大統領選挙]]が行なわれ、[[パウル・フォン・ヒンデンブルク|ヒンデンブルク]]が大統領(一期目)に就任。10月に協議された[[ロカルノ条約]]は、12月1日に調印され、[[ラインラント]]の非武装が正式に確認された。
 
[[1923年]][[12月22日]]に[[ヒャルマル・シャハト]]がライヒスバンク総裁に就任し、ようやく1924年になり通貨は安定し、[[国際連盟]]への加入も認められ、[[1924年]]4月の[[ドーズ案]]により戦争賠償金も軽減され、主に米国向けの輸出と米国からの投資を中心に経済も安定期に入った。ルール地方も徐々に活況を呈していく。[[1929年]][[6月7日]]に戦争賠償金をさらに軽減する[[ヤング案]]をシャハトは受け入れたが、[[10月29日]]に米国ウォール街を襲った[[ウォール街大暴落 (1929年)|大暴落]]は、米国への輸出頼みの世界各国を直撃し、[[世界恐慌]]に拡大してしまう。重工業地帯のルール地方は、真っ先に世界恐慌の直撃を受けた。全国平均の失業率は30%を超え、失業者の群れであふれかえった。[[1930年]][[3月6日]]にシャハトは[[パウル・フォン・ヒンデンブルク|ヒンデンブルク]]大統領にヤング案への反対を表明し、翌日に総裁を辞職した。[[1931年]][[6月20日]][[ハーバート・フーヴァー]]米大統領が[[フーヴァーモラトリアム]]を発表。
 
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 102-14439, Rede Adolf Hitlers zum Ermächtigungsgesetz.jpg|thumb|220px|left|[[全権委任法]]の成立後に演説を行う[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]](1933年3月)]]
{{See also|ブロック経済}}
 
[[1932年]][[3月13日]]に[[1932年ドイツ大統領選挙|ドイツ大統領選挙]]で[[パウル・フォン・ヒンデンブルク|ヒンデンブルク]]が大統領(二期目)に就任。[[5月6日]]、{{仮リンク|ポール・ドゥメール|fr|Paul Doumer|en|Paul Doumer}}[[フランスの大統領|大統領]]([[急進党]])が[[白系ロシア人|白系ロシア]]移民{{仮リンク|パヴェル・ゴルギュロフ|fr|Paul Gorguloff|ru|Горгулов, Павел Тимофеевич|en|Paul Gorguloff}}に銃撃され、翌日死亡した({{仮リンク|ポール・ドゥメール暗殺事件|fr|Assassinat de Paul Doumer}})。[[7月20日]]に[[フランツ・フォン・パーペン]]首相が[[プロイセン州]]の命令違反を理由に{{仮リンク|プロイセン・クーデタ|de|Preußenschlag|en|Preußenschlag}}({{lang|de|Preußenschlag}})を起こし、プロイセン州政府内の「ヴァイマル共和国派」「反ナチ派」「左翼」を根こそぎ一掃した。また、このような[[連立政権]]下における[[ヴァイマル共和政|ワイマール共和国]]への幻滅から、[[7月31日]]の[[1932年7月ドイツ国会選挙|国会選挙]]で[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]が第一党を獲得する。[[11月6日]]の[[1932年11月ドイツ国会選挙|国会選挙]]後も、ナチ党はパーペン首相を認めず、[[1月23日]]には国防相[[クルト・フォン・シュライヒャー|シュライヒャー]]が国会を停止して軍部独裁政治へ移行する案が出されたが、ヒンデンブルク大統領が反対。シャハトのヒンデンブルク大統領に対する推薦などもあり、[[1933年]][[1月30日]]に[[ヒトラー内閣]]が成立。[[2月20日]]の{{仮リンク|1933年2月20日の秘密会談|de|Geheimtreffen vom 20. Februar 1933|label=秘密会談}}で、ヒトラーは[[クルップ]]社の会長[[グスタフ・クルップ]]らからなる[[ルール財閥]]から総額300万[[ライヒスマルク]]の協力を取付けた。[[2月27日]]の[[ドイツ国会議事堂放火事件]]を理由に、翌[[2月28日]]にヒトラーは閣議で「{{仮リンク|民族と国家の保護のための大統領令|de|Verordnung des Reichspräsidenten zum Schutz von Volk und Staat}}」{{sfn|南利明|1992|pp=266-268}}と「{{仮リンク|ドイツ民族への裏切りと反逆的策動に対する大統領令|de|Verordnung des Reichspräsidenten gegen Verrat am Deutschen Volke und hochverräterische Umtriebe}}」の二つの緊急大統領令制定を提案し、ヒンデンブルクが承認。[[ドイツ共産党]]員・[[ドイツ社会民主党]]員が3000人以上逮捕・拘束された。[[3月5日]]の[[1933年3月ドイツ国会選挙|最後の国会選挙]]、[[3月9日]]の共産党が非合法化により、ナチ党が単独過半数。[[3月23日]]の[[全権委任法]]では、[[ドイツ国家人民党]]などの連立与党の協力で必要とされる国会の2/3の議席を満たし、ヒトラー政権が全権を掌握した(→[[ナチ党の権力掌握]])。[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]は、戦争賠償金の支払いを一方的に拒否し(→[[第一次世界大戦の賠償#賠償金支払いの停止|賠償金支払いの停止]])、有名な全国での[[アウトバーン]]建設などとは別に、外国製品の輸入禁止や、ルール工業地帯への国家投資も盛んに行った(→[[ナチス・ドイツの経済]])。
 
[[1934年]][[6月30日]]に「[[長いナイフの夜]]」事件で、[[エルンスト・レーム|レーム]]、[[グレゴール・シュトラッサー|シュトラッサー]]、[[クルト・フォン・シュライヒャー|シュライヒャー]]らが暗殺される。[[10月9日]]に[[ユーゴスラビア王国|ユーゴスラビア国王]][[アレクサンダル1世 (ユーゴスラビア王)|アレクサンダル1世]]とフランス[[外務大臣 (フランス)|外相]]{{仮リンク|ルイ・バルトゥー|fr|Louis Barthou|en|Louis Barthou}}が、[[内部マケドニア革命組織]]の{{仮リンク|ヴラド・チェルノゼムスキ|en|Vlado Chernozemski}}によって[[マルセイユ]]で暗殺された<ref name="shiba1998">{{Cite book
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