「ヴァシリ・ザイツェフ」の版間の差分

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1942年9月から第284狙撃師団に所属する第1047狙撃連隊に配属され<ref>因みにここでの「狙撃」はRifle DivisionやRifle Regimentの慣例的な訳(ないしは誤訳)であって、普通の歩兵を意味する。決して師団や連隊を構成する兵すべてが狙撃兵なわけではない。</ref>、[[スターリングラード攻防戦]]に参加した。彼は1942年11月10日から12月17日までの間に225人の[[ドイツ軍]]将兵を倒している。この中には中尉を含んだ11人の[[狙撃]]兵も含まれる。彼は11月10日以前にも、特別仕様でない[[モシン・ナガンM1891/30|モシン・ナガン・ライフル]]で32人のドイツ兵を倒した。ザイツェフは化学工場の廃墟に設けた狙撃兵訓練学校で28人の兵士を狙撃手として育成し、結果として3,000人以上のドイツ兵が戦死したと云われている。
 
彼の評判は口伝えに全[[赤軍|ソビエト軍]]に広まっていった。これによって不十分な装備しか与えられず、疲れ切って、空腹に苦しむ前線の兵士達は勇気付けられたのである<ref>http://www.warheroes.ru/hero/hero.asp?Hero_id=481</ref>。
 
1943年1月彼は目を負傷したがフィラトフ教授の治療によって視力を回復することが出来た。その後前線に復帰し、大尉に昇進ドニエプル川近郊で終戦を迎えた。戦時中、狙撃手のための教範2冊を執筆しており、それによれば、彼の狙撃手法は2人1組のペア3組で同一地帯をカバーする6人組(シェスチョールカ、''шестерка'')であったことが示されている。
 
戦後はキエフの工場の管理職を歴任した。1991年12月15日死去。彼は生前ヴォルゴグラードに埋葬されることを希望していたが、キエフに埋葬された。