「毛利敬親」の版間の差分

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* 藩政は家臣任せだったが、重要段階では必ず自ら決断した。元治元年(1864年)9月25日の午前4時から藩の命運を賭けた会議が開かれた。このとき[[長州征討|第1次長州征伐]]で幕府軍が長州に迫っており、藩内では侃侃諤々の論戦が行なわれた。昼頃、小姓が「食事が出来ました」と述べると、[[井上馨|井上聞多]]が「藩の運命、ひいては国家の運命がかかっている大事な会議に食事をしている時間などないはず。早く結論を出すべき」とさえぎった。午後7時になっても結論は出なかったが、家臣の意見はほぼ出尽くしていた。敬親はこのときになって初めて口を開き、「我が藩は幕府に帰順する。左様心得よ」と述べるとその場を後にしたという([[井上伯伝]]。忠正公勤王事跡)<ref name="世界人物逸話大事典P260">朝倉治彦 三浦一郎 『世界人物逸話大事典』 角川書店 平成8年2月、1014頁。</ref>。
* [[山内豊範]]が養女の婿という関係で[[山内容堂|山内豊信]]と交友があった。ある時、敬親の近侍が豊信(容堂)の隠居部屋を訪れると欄干に「酔擁美人楼」という額がかかっていた。当時の大名としては珍しいくらいくだけた雰囲気に近侍は感心して敬親に話した。すると「こういう言は酒が飲みたくてもできず、美人を抱きたくても抱く余裕の無い者が好んで口にするものである。容堂はいやしくも24万石の太守で酒佳人は望み次第なのに、わざわざそんな額をかかげて人に見せるのは、自ら豪傑を装うものだ」と敬親は述べたという(『[[涙余集]]』)<ref name="世界人物逸話大事典P260">朝倉治彦 三浦一郎 『世界人物逸話大事典』 角川書店 平成8年2月、1014頁。</ref>。
* 慶応4年(1868年)閏4月14日、[[木戸孝允]]から版籍奉還を促された。全国の諸大名を納得させるために毛利家が率先して模範を示す必要があったためだが、敬親は了承した。木戸は感涙して退出しようとすると敬親は「待て」と呼び止め、「今は戦乱の世の中だから人々は気が荒立っている。これほどの変革を行なうとどういう事が起こるかわからないから、(木戸が)京都に行った上で、その時機を見計らってくれるように。」と注意した。木戸はそれを聞いて敬親に改めて礼を述べ、かの藩主が恐ろしく聡明であることを感じ取ったという([[木戸孝允文書]]。忠正公勤王事跡)([[中原邦平講演]]。忠正公勤王事跡)<ref name="世界人物逸話大事典P260">朝倉治彦 三浦一郎 『世界人物逸話大事典』 角川書店 平成8年2月、1014頁。</ref>([[中原邦平講演]]。忠正公勤王事績)<ref name="忠正公勤王事績">中原邦平講演 776頁。</ref>。
* [[司馬遼太郎]]は『[[世に棲む日日]]』の中で、「敬親に世界観がなかった、といえばかれに酷だろう。かれはかれ自身独創力というものはもたなかったが、人物眼もあり、物事の理解力にも富んだ男で、それにうまれつきおそろしく寛大であった」。「ある意味では、かれほど賢侯であった人物はいないかもしれない。かれは愚人や佞人を近づけようとはせず、藩内の賢士を近づけた」と書いている。
* [[清水義範]]は『[[偽史日本伝]]』([[集英社]] ISBN 978-4087742664)の短編で敬親を取り上げ、「この殿様がもっと馬鹿でも、もっと利口でも、長州藩は途中でつぶれていたであろう。無能な名君、という不思議な人も歴史の中には存在するということだ。」と評している。また版籍奉還後すぐ隠居した事から、私欲や野心が無かったと評している。