「承平天慶の乱」の版間の差分

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* 文中の( )の年は[[ユリウス暦]]、月日は全て[[和暦]]、[[宣明暦]]の長暦による。
 
== 概要 ==
関東では[[平将門]]が親族間の抗争に勝利して勢力を拡大。やがて[[受領]]と地方富豪層の間の緊張関係の調停に積極介入するようになり、そのこじれから[[国衙]]と戦となって、結果的に[[朝廷]]への叛乱とみなされるに至った。将門は関東を制圧して[[新皇]]と自称し関東に独立勢力圏を打ち立てようとするが、[[平貞盛]]、[[藤原秀郷]]、[[藤原為憲]]ら追討軍の攻撃を受けて、新皇僭称後わずか2ヶ月で滅ぼされた。
 
瀬戸内海では、[[海賊]]鎮圧の任に当たっていた[[藤原純友]]が、同じ目的で地方任官していた者たちと独自の武装勢力を形成して京から赴任する受領たちと対立。結果として蜂起に至った。西国各地を襲撃して朝廷に勲功評価の条件闘争を仕掛け、これを脅かしたが、平将門の乱を収拾して西国に軍事力を集中させた朝廷軍の追討を受けて滅ぼされた。
 
なお、この反乱は一般に[[承平 (日本)|承平]]・[[天慶 (日本)|天慶]]の両[[元号]]の期間に発生したことから「承平天慶の乱」と呼称されているが、承平年間における朝廷側の認識ではこの当時の将門・純友の行動は[[私戦]](豪族同士の対立による私的な武力衝突)とその延長としか見られていない。実際にこれが「反乱行為」と見なされるのは、天慶2年に将門・純友が相次いで起こした[[国司]]襲撃以後のことである。従って、この乱を「天慶の乱」と呼ぶことには問題はないものの、単に「承平の乱」と呼んだ場合には事実関係との齟齬を生む可能性があることに留意する必要がある。
 
== 平将門の乱 ==
=== 平氏一族の私闘 ===
[[桓武天皇]]の曾孫・[[高望王]]は[[平氏|平姓]]を賜って臣籍に下り、都では将来への展望もいため、[[上総国|上総]][[介]]となり関東に下った。つまり、京の貴族社会から脱落しかけていた状況を、当時多発していた[[田堵]]負名、つまり地方富豪層の反受領武装闘争の鎮圧の任に当たり、武功を朝廷に認定させることによって失地回復を図ったとも考えられている。高望の子らは武芸の家の者([[武士]])として坂東の治安維持を期待され、関東北部各地に所領を持ち土着した。ただし、この時代の発生期の武士の所領は、後世、身分地位の確立した武士の安定した権利を有する所領と異なり、毎年[[国衙]]との間で公田の一部を、経営請負の契約を結ぶ形で保持するという不安定な性格のものであった。つまり、彼らがにらみを効かせている一般の田堵負名富豪層と同じ経済基盤の上に自らの軍事力を維持しなければならず、また一般の富豪層と同様に受領の搾取に脅かされる側面も持っていた。
 
高望の子のひとり[[平良将]](良持とも)は[[下総国]][[佐倉市|佐倉]]に所領を持ち、その子の将門は[[京都|京]]に上って朝廷に中級官人として出仕し、同時に官人としての地位を有利にするために[[摂関家]][[藤原忠平]]の従者ともなっていた。良将が早世したため将門が帰郷すると、父の所領の多くが伯父の[[平国香|国香]]や叔父の[[平良兼|良兼]]に横領されてしまっていたといわれ、将門は下総国豊田を本拠にして勢力を培った。
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承平8年([[938年]])2月、身の置き所のなくなった平貞盛は[[東山道]]をへて京へ上ろうと出立するが、朝廷に告訴されることを恐れた将門は100騎を率いてこれを追撃、[[信濃国]][[信濃川|千曲川]]で追いついて合戦となり、貞盛側の多くが討たれるも、貞盛は身ひとつで逃亡に成功。上洛した貞盛は将門の暴状を朝廷に訴え、将門への召喚状が出された。6月、貞盛は東国へ帰国すると[[常陸国司|常陸介]][[藤原維幾]]に召喚状を渡し、維幾は召喚状を将門に送るが、将門はこれに応じなかった。貞盛は[[陸奥国]]へ逃れようとするが、将門側に追いまわされ、以後、東国を流浪することを余儀なくされる。
 
=== さらなる争い ===
[[天慶]]2年([[939年]])2月、[[武蔵国]]へ新たに赴任した[[受領|権守]]、[[興世王]]と介[[源経基]]([[清和源氏]]の祖)が、足立郡の[[郡司]][[武蔵武芝]]との紛争に陥った。将門が両者の調停仲介に乗り出し、興世王と武蔵武芝を会見させて和解させたが、どういう経緯か不明だが、武芝の兵がにわかに経基の陣営を包囲し、驚いた経基は逃げ出してしまった。
 
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対立が高じて合戦になり、同年11月、将門は兵1000人を率いて出陣した。維幾は3000の兵を動員して迎え撃ったが、将門に撃破され、[[国府]]に逃げ帰った。将門は国府を包囲し、維幾は降伏して国府の印璽を差し出した。将門軍は国府とその周辺で略奪と乱暴のかぎりをつくした。将門のこれまでの戦いは、あくまで一族との「私闘」であったが、この事件により不本意ながらも朝廷に対して反旗を翻すかたちになってしまう。
 
=== 新皇と称す ===
興世王の進言<ref>時ニ武蔵権守興世ノ王、竊カニ將門ニ議テ云ク、「案内ヲ検スルニ、一國ヲ討テリト雖モ公ノ責メ輕カラジ。同ジク坂東ヲ虜掠シテ、暫ク氣色ヲ聞カム。」者。</ref>に従い将門は軍を進め、同年12月、下野国、[[上野国]]の国府を占領、独自に[[除目]]を行い関東諸国の国司を任命した。さらに巫女の宣託があったとして将門は[[新皇]]を称するまでに至った。将門の勢いに恐れをなした諸国の受領を筆頭とする国司らは皆逃げ出し、武蔵国、[[相模国]]などの国々も従え、関東全域を手中に収めた。
 
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なお、天長3年(826年)9月、上総・常陸・上野の三か国は親王が太守(正四位下相当の勅任の官)として治める親王任国となったが、この当時は既に太守は都にいて赴任せず、代理に介が長官として派遣されていた。当然ながら「坂東王国」であるなら朝廷の慣習を踏襲する必要は全く無く、常陸守や上総守を任命すべきであるが、何故か介を任命している。ここでの常陸、上総の介は慣習上の長官という意味か、新皇直轄という意味か、将門記の記載のとおり朝廷には二心がなかったという意味なのかは不明である。その一方で上野については介ではなく守を任命しており、統一されていない<ref>[[海音寺潮五郎]]は著書『悪人列伝 古代篇』にて、これを将門の無知の証拠として指摘している。</ref>。
 
=== 追討 ===
将門謀反の報はただちに京にもたらされ、また同時期に西国で藤原純友の乱の報告もあり、朝廷は驚愕した。直ちに諸社諸寺に調伏の祈祷が命じられ、翌天慶3年([[940年]])1月9日には先に将門謀反の密告をした源経基が賞されて従五位下に叙された。1月19日には[[参議]][[藤原忠文]]が[[征東大将軍]]に任じられ、追討軍が京を出立した。
 
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将門の死により、その関東独立国は僅か2ヶ月で瓦解した。残党が掃討され、将門の弟たちや興世王、藤原玄明、藤原玄茂などは皆誅殺される。将門の首は京にもたらされ梟首とされた。将門を討った秀郷には従四位下、貞盛、為憲には従五位下がそれぞれ授けられた。
 
== 藤原純友の乱 ==
承平天慶の頃、瀬戸内海では[[海賊]]による被害が頻発していた。従七位下[[伊予国|伊予]]掾の藤原純友は海賊の討伐に当たっていたが、承平6年([[936年]])頃には伊予国[[日振島]]を根拠に1000艘を組織する海賊の頭目となっていたとされる。
 
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天慶4年([[941年]])2月、純友軍の幹部[[藤原恒利]]が朝廷軍に降り、朝廷軍は純友の本拠日振島を攻め、これを破った。純友軍は西に逃れ、大宰府を攻撃して占領する。純友の弟の[[藤原純乗]]は、[[柳川市|柳川]]に侵攻するが、[[大宰権帥]]の[[橘公頼]]の軍に[[蒲池]]で敗れる。5月、小野好古率いる官軍が[[九州]]に到着。好古は陸路から、[[大蔵春実]]は海路から攻撃した。純友は大宰府を焼いて博多湾で大蔵春実率いる官軍を迎え撃った。激戦の末に純友軍は大敗、800余艘が官軍に奪われた。純友は小舟に乗って伊予に逃れた。同年6月、純友は伊予に潜伏しているところを警固使[[橘遠保]]に捕らえられ、獄中で没した。
 
== 比叡山上の共同謀議伝説 ==
京で朝廷に中級[[官人]]として出仕していた青年時代の平将門と藤原純友は、或る日、[[比叡山]]に登り[[平安京]]を見下ろした。二人はともに乱を起こして都を奪い、将門は[[桓武天皇]]の子孫だから[[天皇]]になり、純友は[[藤原氏]]だから[[関白]]になろうと約束したとする[[伝説]]が世に知られている。また、比叡山上には、この伝説にちなんだ「将門岩」も存在し、そこには将門の無念の形相が浮かび出るという伝承までがなされている。
 
当時の[[公卿]]の日記にも同時期に起きた二つの乱について「謀を合わせ心を通じて」と記されており、当時、両者の共同謀議説はかなり疑われていたようである。
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== 意義 ==
 
二つの乱は、ほぼ同時期に起きたことから将門と純友が共謀して乱を起こしたと当時では噂され、恐れられた。
 
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その一方で、二つの乱とほぼ同時期に全国各地で「反乱」と呼ぶべき事件が発生していた。『[[日本紀略]]』や藤原忠平の日記の抜粋である『[[貞信公記抄]]』によれば、939年(天慶2年)春以後出羽国では[[俘囚]]の反乱([[天慶の乱 (出羽国)]])が断続的に続き、8月には[[尾張国]]では国守[[藤原共理]]が殺害され、翌940年(天慶3年)1月には駿河国で「群賊」「凶党」が騒擾を起こしている。将門や純友の動きもこうした動きの一環であり、当時の朝廷の統治機構に与えた打撃もわずかであった(将門が新皇を名乗ってから滅亡まで2ヶ月間しかなく、純友は海賊行為に終始して地域に割拠することはなかった)ことから、反乱としての実質的な規模は限定的なものであったとする指摘もある<ref>三田武繁『鎌倉幕府体制成立史の研究』吉川弘文館、2007年、序章「一一八〇年代の内乱と鎌倉幕府体制の形成」。</ref>。
 
== 参考文献 ==
* 福田豊彦『中世成立期の軍制と内乱』(吉川弘文館、1995年) ISBN 4642027475
* 川尻秋生『平将門の乱』(吉川弘文館、2007年) ISBN 9784642063142
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*[http://www.kandamyoujin.or.jp/ 神田明神]
 
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