「尖閣諸島問題」の版間の差分

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尖閣諸島近海は好漁場であるため、台湾漁民による操業が行われており日本側漁民との摩擦が生じていた。[[1955年]]には[[第三清徳丸襲撃事件]]が起き、中華民国国旗を掲げた海賊船による襲撃で死者行方不明者6名を出す事件が発生している。
 
1960年代に入っても尖閣諸島に大量の台湾人漁民が入域し、島に生息する海鳥とその卵を乱獲したほか、付近海域で密漁する事態は続発していた。日本の[[気象庁]]離島課は絶滅危惧種の[[アホウドリ]]が尖閣諸島に生息している可能性があるとして、関係部署に依頼し[[琉球大学]]の高良鉄夫教授らを[[1963年]]春に調査団として派遣した。この調査団は100万羽以上の海鳥が生息する事を確認したが、アホウドリではなく台湾漁船をも発見した。この漁船は夜の漁のために停泊していたが、その合間に[[海鳥]]や[[卵]]を収奪乱獲していた。そのため調査団は不法行為だと注意したが無視されたという。そのため高良教授は「このまま放置しておいたら現在生息している海鳥も衰亡の一途をたどる。何か保護する方法を考えなければいけない」と語ったが<ref>朝日新聞1963年5月21日夕刊</ref>、実行力のある対処は行われなかった。
 
これは尖閣諸島を管轄する琉球政府には外交交渉権がなく、また本来主権を持つ日本政府も当時の沖縄の施政権は返還されていなかったため、当時国家承認していた中華民国(台湾)に対して尖閣諸島における台湾漁民の傍若無人ぶりを抗議できなかったという。そのうえ琉球政府の上部にある琉球米民政府およびアメリカ合衆国政府は、在台北のアメリカ大使館を通じて「抗議」したものの、台湾当局が積極的な取締りをしなくても、台湾の蒋介石政権との「米華関係」を重視したため不問にしたとみられている<ref name="asahi19680718yuu">朝日新聞1968年7月18日夕刊</ref>。
 
1968年に行われた調査では台湾漁民の乱獲による資源海鳥収奪による激減ぶりが数字の上でも明らかになった。5年前の調査と比較して南小島の[[カツオドリ]]が20万羽から1万羽、北小島の[[セグロアジサシ]]は50万羽から10万羽に激減していた。これは島から漁民が台湾に海鳥の卵を菓子の原料として大量に運び去ったうえに、無人島ゆえに人間を警戒しない海鳥を捕獲していたためであった。調査団は台湾人に食べられた大量の海鳥の屍骸や漁船だけでなく、南小島において台湾人60人が難破船を占拠しているのも確認している。
 
このような台湾人による領土占拠の既成事実が積み重なることで、当時から地元西南群島の住民から第二の[[竹島 (島根県)|竹島]]になる危惧を指摘する声もあったが<ref name="asahi19680718yuu"/>、この当時は日本国内では尖閣諸島における台湾人の不法入域は殆ど重要視されることはなかった。なお南小島の占拠者であるが、退去勧告を発し再度の入域を希望する場合には許可証を得るように指導した。彼らは解体作業を片付けるために翌年にかけて入域したが、この時は琉球列島高等弁務官の入域許可を得た合法的な行為であり、この措置に対し台湾の中華民国政府からの異議はなかった。