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== 生涯 ==
天文11年(1542年)、頼光流岩付太田家の太田資正の嫡男として誕生。父資正は[[扇谷上杉家]]旗下として反[[後北条氏|北条氏]]の立場を取り、[[河越城の戦い]]中で[[上杉朝定 (扇谷上杉家)|上杉朝定]]去した後も北条方の[[松山城]]、岩付城を落とすなどの反抗を示していたが、天文17年(1548年)1月に北条氏方に付いた。
 
北条氏は当主である北条氏康の娘を資房に嫁がせるなど太田氏との関係強化を図ったが、資正は北条氏方として活動しつつも北条派の家臣を追放するなど独立の動きを示しており、永禄3年([[1560年]])に[[長尾景虎]]が[[小田原城の戦い (1560年)|関東に出兵]]するとこれに呼応し、北条氏に対して明確な敵対行動を取るようになる。