「戸石城」の版間の差分

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築城年代は不明だが、隣接する真田郷に興った[[真田氏]]の外城として築城されたのが最初とされている(当時の状況は不明)。天文10年(1541)に真田氏が追われたのち、[[村上義清]]が[[小県郡]]・[[佐久郡]]方面の拠点として大改築した(戸石城は、元々南側の出城の名前であったものが、いつしか城全体の呼称になったとも言われている)。
 
戸石城の位置は村上氏の本拠地[[埴科郡]]と上田平との境目にあたり、小県の村上領(塩田荘など)と本領を結ぶ結節点となる最重要拠点と位置づけられ、額岩寺光氏や山田国政ら有力な諸将が配された。その後、佐久郡から進出を狙う甲斐の[[武田信玄|武田晴信]](信玄)との間で激しい攻防が繰り広げられ、特に天文19年([[1549年]])の武田軍の一方的とも言える敗退は「[[砥石崩れ|戸石崩れ(砥石崩れ)]]」と呼ばれる。この時の状況については『[[勝山記]]』に、「''この年の9月1日に信州砥石の要害を御除け候とて、横田備中守をはじめとして、随分衆千人計り討死なられ候。されども御大将は、よく引きたまわり候''」と記されている。この敗戦により力攻めを諦めた武田氏は、信濃国衆であった家臣・[[真田幸綱]](幸)に攻略を命じ、『[[高白斎記]]』によれば調略によって城内に内通者を出し、天文20年([[1551年]])5月に陥落させる。
 
同城は真田氏に与えられ、村上氏は本拠地である埴科郡が武田勢の直接的な脅威にさらされることになり、以後は大勢を挽回できずに配下の諸豪族の離反を招き、滅亡に至ることになる。村上氏滅亡後は、主戦場が北部の川中島方面に移ったこともあり、歴史に登場するのは[[上田合戦]]において支城として利用された時ぐらいとなる。