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== 居城 ==
兵庫県丹波市山南町玉巻の八幡山にあった。久下城、玉巻城と称される。現在でも遺構がのこっている<ref>[http://www.eonet.ne.jp/~yorisan/newpage126.htm 久下城]</ref><ref>[http://www.sannan.or.jp/jyoushi.html 玉巻城跡(久下城)]</ref>
[http://www.eonet.ne.jp/~yorisan/newpage126.htm 久下城]
[http://www.sannan.or.jp/jyoushi.html 玉巻城跡(久下城)]
 
== 逸話・伝説 ==
===; 家紋の由来 ===
: 久下氏の家紋は「一番」という文字であるが、その由来が『[[太平記]]』に記されている。
: 足利尊氏が丹波[[篠村八幡宮]]で挙兵したとき、久下時重が250騎を率いて真っ先にはせ参じた。その旗印に「一番」とあるのを不審におもった尊氏がその由来を尋ねた。[[高師直]]が、「[[源頼朝]]が土肥の杉山で挙兵したさい、久下重光が一番にはせ参じた。頼朝は、もし天下を取ったならば一番に恩賞を与えよう、と「一番」という文字を書いて与え、やがてそれを家の紋としたのである」とこたえた。尊氏は、それは吉例であると喜んだという。
===; 熊谷直実との所領争い ===
: [[建久]]3年([[1192年]])[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]、[[熊谷直実]]と[[久下直光]]が所領の相論のため、頼朝の前で議論をおこなった。直実はうまく答弁できず、頼朝はすこぶる不審に思ったのだが、判決がでない内に直実は書類等を頼朝になげつけ、憤怒のあまり髻をきり遁世に及び、居宅にも戻らず西に向けて逐電したという(『[[吾妻鏡]]』)。
: [[1300年]](正安2年)、当時の[[熊谷氏]]当主・[[熊谷直満]]と久下氏の当主・[[久下光直]]が和解に至り、108年に及ぶ争いに終止符を打った。
 
== 出典 ==
足利尊氏が丹波[[篠村八幡宮]]で挙兵したとき、久下時重が250騎を率いて真っ先にはせ参じた。その旗印に「一番」とあるのを不審におもった尊氏がその由来を尋ねた。[[高師直]]が、「[[源頼朝]]が土肥の杉山で挙兵したさい、久下重光が一番にはせ参じた。頼朝は、もし天下を取ったならば一番に恩賞を与えよう、と「一番」という文字を書いて与え、やがてそれを家の紋としたのである」とこたえた。尊氏は、それは吉例であると喜んだという。
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=== 熊谷直実との所領争い ===
[[建久]]3年([[1192年]])[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]、[[熊谷直実]]と[[久下直光]]が所領の相論のため、頼朝の前で議論をおこなった。
直実はうまく答弁できず、頼朝はすこぶる不審に思ったのだが、判決がでない内に、直実は書類等を
頼朝になげつけ、憤怒のあまり髻をきり遁世に及び、居宅にも戻らず西に向けて逐電したという。(『[[吾妻鏡]]』)
 
[[1300年]](正安2年)、当時の[[熊谷氏]]当主・[[熊谷直満]]と久下氏の当主・[[久下光直]]が和解に至り、108年に及ぶ争いに終止符を打った。
 
== 関連項目 ==
* [[熊谷氏]]
 
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[[Category:日本の氏族]]