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17世紀の[[ジャンバッティスタ・ヴィーコ|ヴィーコ]]や[[アントニー・アシュリー=クーパー (第3代シャフツベリ伯爵)|シャフツベリ伯]]によって、人々の共通の感覚という意味での常識は哲学的に主題化された。
 
イギリス経験論、及び[[スコットランド常識学派]]において、人々が共有する本能的で(健全な)判断能力という意味での常識の概念は重要な位置を占めた。トーマス・リード[[:en:Thomas Reid|(Thomas Reid)]]はその常識の観念を提示するに当たって、しばしばキケロの Sensus Communis を引用している。彼らは[[デイヴィッド・ヒューム]]のように疑わなくても、「2+2は4だろ、だれも証明したわけではないが、みなそれが正しいと思う。それがコモン・センス。美しいものを見て美しいと思うのも、善悪を判断できるのもコモン・センス・それで判断すればいい」と主張した<ref name="nada">[[なだいなだ]]『常識哲学』([[筑摩書房]] [[2014年]])。</ref>
 
[[カント]]においては Sensus Communis は「共同体感覚 ( Gemeinsinn )」という意味合いで規定され、感性的(美的)なものの普遍性・伝達可能性を支えるものとされている。
 
歴史的には、[[トマス・ペイン]]のパンフレット[[コモン・センス]]が[[共和主義]]的アジテーションにおいて常識の概念を中核に据えたことが有名である。
 
「コモン・センス」を訳したのを「識」を使うことなどから、なだは[[井上円了]]あたりの仏教徒だろうと考えている。
 
[[小林秀雄]]は『常識について』を書いているが、[[前田陽一]]が戒めていた「ボン・サンス」(「良識」で「賢い判断」位の意味)と「コモン・センス」(小林がフランス語で「サン・コマン」としているのは「サンス・コマン」の間違い)を混同している<ref name="nada">[[なだいなだ]]『常識哲学』([[筑摩書房]] [[2014年]])。</ref>。
 
== 常識と真理 ==
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{{quotation|「常識はきわめてまれである」と言われることがあるが、この言葉は何を意味するのであろうか。それは、若干の人びとの理性は偏見によって初めから発展を停止され、またあることにはきわめて健全に判断する人がほかのことにはたえず大きな誤りを犯すということである。|[[ヴォルテール]]『哲学事典』「常識」の項より、[[高橋安光]]訳。}}
注:より普及している「常識(common sense)はそれほど一般的(common)ではない」という否定形のものは出典が見つかっていない。
{{quotation|常識とは、18歳までにあなたの精神の底に沈殿した[[偏見]]の堆積にすぎない|[[アルバート・アインシュタイン]]|E・T・ベル『数学は科学の女王にして奴隷』}}注:[[ジョン・ロック]]の「人間、うまれた時の精神は白紙であり、経験に依らない知はなにも存在しない」という考え方を踏襲した考えである<ref name="nada">[[なだいなだ]]『常識哲学』([[筑摩書房]] [[2014年]])。</ref>。
 
== 参考文献 ==
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<!-- == 外部リンク == -->
 
== 脚注 ==
<references/>
 
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